院長エッセイ
年の瀬の回想(旅情編 その2)
風が見える。湾内は凪(なぎ)で、その静かで平坦な海面を帯状の細かいストライプのさざなみが走る。まるで書家が太い筆で大胆に走らせる一筆のように美しい曲線だ。海でも風の通り道が見えるものなのだと、新鮮な驚きが少し澱んでいた私の心を浄化した。20年近く日本海に程近い場所に住んでいたから、海の水面(みなも)を見る機会は数え切れないほどあった。しかしこうしてゆったりと俯瞰して水面を眺めることはあまりなかったように思う。年の瀬の穏やかな太平洋(パシフィック)を臨む下田の宿。おそらく前身は海の家だったのだろうか、ほんの波打ち際まで敷地があり、ビーチはまさにプライベートそのもの。断崖に張り付く形で4階建てのおしゃれな建物があり、屋上が国道と同じレベルでエントランスとなっている。部屋には個別の広いバルコニーがあり、フェンスがない代わりに一面の厚いガラス張りで、景色を遮る物はなく海が一望できる。人気の宿らしく半年以上前にネットで予約しようとしたらキャンセル待ちになったので、ウェイティングリストに登録しておいたら11月になってキャンセルが出て幸運にも一晩予約が取れた。長野からは遠くて少々贅沢な宿ではあるが、今年も様々の障害を乗り越えて頑張った自分たちへのご褒美にと宿泊を決めた。大晦日の前日をパシフィックを眺めながら過ごすなど人生初めての経験だ。
子供の頃は年の瀬と言えば慌ただしく正月に向けて家族総動員で準備を進めたものだった。母は姉と私を連れておせち料理の買い出しに行く。当時権堂に「ニシナ」、長野駅近くに「魚力」という大手の食品店があり、近かったせいもありわが家は前者へ買い出しに行くことが多かった。手頃で上質な新巻鮭を品定めしてまるごと一匹購入するのが買い出しのメインイベントであった。みかんは木箱で購入した。重いので、これは父の役割で自転車の荷台にくくりつけて持ち帰って来たものだ。大晦日には全員で大掃除をして夕方前には風呂に入る。そして紅白歌合戦が始まるまでに全て準備を整えて、家族全員で「お年取り」をするのがわが家の恒例であった。おそらくわが家だけではなく昭和の時代にはこれが普通だったように思う。
クリスマス、冬休み、そして正月と、1年の中でも最も濃厚に楽しいイベントが目白押しのこの時期、私はきまって胃腸を悪くして寝込んだ。クリスマスに親の目を盗んで赤玉ポートワインを飲み過ぎたり、バタークリームのクリスマスケーキを食べ過ぎたせいかはわからぬが、毎年決まって胃腸を悪くした。粥の嫌いな私はジュースしか受け入れず、しまいにはそのジュースすら戻してしまうありさまで何も食べれなくなった私に母は四苦八苦していた。ある時新巻鮭のアラと大根、ニンジン、ジャガイモを酒粕で煮込んだアラ汁を作ってくれた。これが的中して私の食欲は回復を始め、無事に正月三が日の雑煮やぜんざいを普通に平らげ、家族みんなでこたつに当たって花札の坊主めくりやミカン釣りなどのゲームに興じることもできるようになった。今考えると周期性嘔吐症だったのかもしれない。それにしても病気で食欲がなかった私が、癖の強い粕汁でどうして復活したのかは今でもわからない。現代のように栄養を考慮したゼリー食や補水液もない時代、母の苦肉の策は医学的常識を大きく超えたものだったのかもしれない。
湾の対岸には闇の中に数個の宿の灯りが点在し、年末で漁も休みなのか海上に漁り火はなく海は総じて闇の中。宿の演出でビーチを照らす照明があるが、それの届く範囲でかすかに白いリップ(波の先端部分)だけが浮かんで見えた。波の音だけが絶え間なくリフレインを繰り返し、太平洋がそこにあることを主張している。空は澄んで一面の星空を望めた。海辺で見る星空だ。長野で観る星と科学的には大して差はないはずだが、南十字星が見えそうな錯覚となるのは何故だろう。年を取ったせいとCOVID-19 パンデミックで行動範囲が極端に減少し、今の私たちには長野と下田の距離が若い頃の日本とオーストラリアに匹敵するのかもしれない。冬期は地球の位置が銀河の中心とは対側にいるため天の川は残念ながら臨めないが、無数の恒星たちが夜空を埋め尽くし、その背後には2兆個を超えるだろう銀河が控えている。他界した父や母や大切な人々が、伝説のように星になっているとしたらどの星なのだろう。ハッブルやジェームズ・ウェッブ宇宙望遠鏡でなければ見えないはるか途方もなく遠い銀河の星になっているのだろうか。炬燵を囲んで足が触れあいながら年の瀬と正月を楽しく過ごした両親が、人の一生分の年月を光速で移動しても到底届かないような遠くに行ったとは思えないので、素粒子のように目に見えない粒子となって、私たちの下田旅行に同行していると思いたい。逝ってしまった尊き愛すべき人たちに想いを馳せて2024年の年の瀬の夜は太平洋の波間に溶け込んで行った。翌朝はびっくりするほど新鮮で珍しい魚の料理がテーブルに並んで堪能したことを書き添えておこう。
(2024年年の瀬 下田にて)
2025-02-02 23:05:24
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六月の思い込み(旅情編 その1)
五月を彩った木々の心浮き立つ明るい緑たちは、梅雨を迎えて潤んだそれに落ち着き、薄曇りのぼやけた景色に安定感をもたらしている。毎年この時期に訪れるなじみのホテルのバルコニーで、遠く斑尾山とその右手に野尻湖を臨む。空と緑の比は4対6で、緑の森の中には小さな街が点在している。夏のゲレンデは緑の絨毯を広く敷きつめたようで、うっそうとした森林が覆いかぶさる景色よりは遙かに開放感があり気持ちが外向きになれる。日々の生活で縒れた(よれた)心の皺が少しずつ伸ばされていく。この景色を眺めながら気の済むまで滞在できればといつも思う。しかしけっきょくは翌日になると後ろ髪を引かれながらも荷物をパックして、少しだけ皺が伸びた心を胸にこの場所を後にする。
予測から逸脱することが少ないスケジュールで毎日が繰り返され、登場人物は違えど類似したドラマが毎日展開していく。60歳代も後半になると日々に安定を求め冒険をしなくなる。たぶん心の底では飽き飽きしている自分がいるのはわかっているが、リズムが一定で所作も変えずに済むから楽なので、それに甘んじている気がする。ヒトは様々な事象や場面に遭遇した時、大脳皮質をフル稼動して対応するが、何度も同じ経験をしていると大脳皮質よりは進化的に古い脳領域である大脳基底核や小脳を使って対応するようになると言われている。大脳基底核は動きの必要・不必要を判断し、小脳はパターンをモデル化して記憶し、運動の命令がきちんと実行されているかをチェックしてズレがあれば修正するらしい。だからあまり意識しなくても一連のパターン化した事象に対応できるようになって行く。そうして生きていくのは効率的で、ある意味平穏な日々の証なのかも知れない。そんな平凡で平坦で、ある意味とても平和な日々が続いている。それでも心に毎日刻まれていく心の縒れ(よれ)は何なのだろう。
大分冷めてしまったコーヒーをゆっくりと飲み干し、テラスから雪のないスキーゲレンデを臨む。この景色も12月ともなれば一面の白に変わるのだろう。眼を閉じると銀世界のシーンが脳裏に広がる。幼い子供の頃から冬になるとスキーやそり遊びに明け暮れていた。物心ついてからも、大学に入ってからもスキーには特別の思い入れがあって、雪が降ってくると居ても立ってもいられない自分があった時期を思い出す。スキー経験のない妻を連れて来て、スキーをやみつきにさせたのもこの場所であった。仕事に就いてからも拘束番でない冬の日はしばしばスキーに出かけていた。100km前後の距離なら仕事終わりに車でひょいと出かけてナイタースキーも楽しんだ。あの頃はエネルギッシュで、ストレスにもプレッシャーにもタフな自分がいた。中年を過ぎ小さな怪我が度重なって膝を傷めてから、結局スキーから遠ざかってしまった。
診療所を開設した頃から診ていた軽度認知障害のご婦人がいる。夫が妻想いのよく出来た方で、旅行や遊興にできるだけ従来と変わらずご婦人を連れ出しておられた。冬になると80歳も近いのにご夫婦でスキーに出かけるとのことで、おそらくお二人でこよなくスキーを楽しまれた過去を引き継いでいるのだろうことはスキー世代の私には痛いほどわかった。しかし10年近い診療経過の中で、ご婦人の認知機能は次第に悪化し、転倒による骨折を負ったことが拍車をかけて、ついには施設入所されることになった。何とかお二人の生活が変わらぬままで維持できるよう努力したつもりであるが、疾患がもたらすアクセル全開の退行にはブレーキがかからなかった。彼女は彼女らしさの大半を引き剥がされて、夫の腕の中から施設の介護の枠の中へと身を移すこととなった。二度とスキーを履くことのない彼女を想い、施設入所診断書にサインするペンが鉛で出来ているかのように重く感じた。
私たち夫婦も意に反してスキーを卒業してしまった今、テラスから雪のないゲレンデを眺めながら、初夏の潤んだ緑の絨毯の方が今の自分たちには合っていると感じている。いや、思い込もうとしているのかも知れない。まだ人生を語るほど年配にはなっていないが、それでもたくさんの物を失ってきた気がする。その喪失感が心の皺の最たる原因かも知れないが、逆にここまで生きてこれたからこそ得られた熟成と達成もある。こうして豊かな時を心地よい環境で堪能できるのもその一つの例かも知れない。泣くから悲しいのか、悲しいから泣くのかという真剣な論争が脳科学分野にはあり、情動と感情は区別されている。今の自分たちを若さとエネルギーを失って萎えていくと捉えるか、様々を経験して最小限のエネルギーと洗練されたスキルでゆとりのある時間を過ごせるようになったと捉えるかは人それぞれであるが、私は後者で過ごしていきたい。笑ったり微笑んだり、感動したときはブラボー!と声を張り上げれば、おのずと幸福な気分が開けるかも知れない。そしてこれまでの生き方の知恵を携えて飽くなき新たな経験を積んでいければなおよいと思う。湿った梅雨の風に吹かれてコーヒーを1杯飲む間の思い込みとその結論だった。(2024年6月 定宿のホテルのバルコニーにて)
2025-02-02 23:03:44
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時の流れ
鬱蒼とした森の木立の中をさほど広くない道が緩やかなカーブを描き、左右には苔むした広大な庭を擁した別荘が建ち並んでいる。高級車が駐まって洒落た室内灯が点った家もあるし、暫く家主が訪問していないであろう雨戸が閉ざされた邸宅もある。十数メートル離れたどこかの木立でミンミンゼミが高々と声を上げている。オニヤンマが闊歩するように道を横切り、1年ぶりくらいで見た気がして「やあ」と思わず声をかけてしまった。昨日は仕事場にこもりきりで屋内を行き来しただけだったので、今日は旧軽井沢の町中まで徒歩で行こうとホテルを後にしたが、歩き出して数十メートルのところで別荘を改装したと思われるこじゃれたベーカリーが眼に入り、さっそく立ち寄って早々の休憩を取った。ソフトクリームやコーヒーもテイクアウトでき、店の前にお洒落なベンチや椅子が置いてあったので、私たちは腰掛けて牛乳味の濃い上品なソフトクリームを平らげた。そこから十数分ぶらぶらと歩いて、多くの人々が行き交う旧軽井沢メインストリートの店を冷やかした。明らかに日本人とは異なる言い回しの夫婦が出している木彫りの露店に、シェルティーのWelcome boardが売っていたので買い求めた。シェルティーのグッズを扱っている店舗が少ないとぼやくと、店主は独特のイントネーションで自分も数年前までシェルティーを飼っていたからだと話してくれた。
そもそもこの軽井沢のホテルを予約したのは一昨日で、自分たちなりにつらくて消沈する出来事が重なって、仕事の疲れもかなり蓄積していたのでほんの束の間でも旅をしたい気分になったからだ。突然の宿探しは直前のキャンセル案件が混じるので、棚ぼた的な良い宿に巡り会うことがある。このホテルも広大な森の中にある老舗ホテルで、立地は満点に近い。エアコンは要らないくらいに涼しいので網戸にすると、日暮れには窓の外でカナカナゼミが鳴き、遠くでカラスがジャイアンみたいな声を一つ二つあげただけであとはすっきりした静寂だ。けっして喧噪の中で生きているわけではないが、この澄んだ静寂と森が擁する空気は、身も心も清浄化してくれているように思う。
大学卒後40周年の同窓会がCOVID-19 パンデミックのせいで一年延期になり、今年ようやく開かれたので新潟市まで出向いて出席してきた。55人ほどの出席者であったが、学生時代の面影からは大きく離れ、バリバリのスポーツマンだった者が闘病していたり、車好きで趣味が合っていた友人が人生の難題に直面して「もう車が好きな時代は過ぎた」と冷めたつぶやきをしていたり、既にこの世を去った学友も何人もいることを知り、時の経過を実感した。私は一人一言の挨拶で、アメリカの物理学者のマックス・テグマークの唱えた「ブロック宇宙論」のことを話した。つまり時間の経過という物は人間が記憶という形で「今」を残すから存在するのであって、実際には物質配置の異なる「無数の現在」が存在するだけで「時間は存在しない」と。つまり時の流れは人の創り出した幻想であり、この幻想こそ人間の最も優れた部分であるので、「みんないつまでも脳が健全であれ」との願いを込めたメッセージのつもりだったが、案の定全く受けなかった。元々人つきあいのよい方ではなく、どちらかと言うとクラスでは浮いていた存在だったのでさほど落胆はしなかったが、自分の挨拶の下手さ加減と空気の読み方の悪さを再確認した形だった。とにかく自分を含めいつまでも健康で健全であれと祈るように会場を後にした。
私が心身ともに疲れてこのホテルに逃げ込んだ一番の理由は「時の流れ」の負の面をたくさん確認し過ぎたせいかもしれない。同級会の一件はもちろんだが、連日診療では「時」を失いかけている認知症の患者さんを多く診ている。刻々と記憶も人格もその人の本質も消失して時の経過の果てに大きく変化した悲しい「現在」を診察と画像とで確認する日々。決定的な治療薬もなく必要最低限の対症療法で見守るしかなく、落胆の繰り返しである。診療所を開設して十年を過ぎるとそうした変化を呈する患者さんが目立ってくる。自分もいい年になってきたしいつ同じような変化が始まるかわからないロシアンルーレットに組み入れられていることは確かである。人が生きていくと言うことはベル・カーブ(bell curve: 教会の鐘のシルエットのように上昇・頂点・そして下降がある曲線)で、生きている限りは下降を受け入れなくてはならない。その下降の恐怖と不安と寂寞に打ち勝つ強い自分であれと願うが、その方法が見つからない。
軽井沢の静かな夜が更けていく。コーヒーカップを片手にハッブル宇宙望遠鏡から捉えた美しい写真集を見開き、目を見張る美しい宇宙の営みを眺める。中でも心を奪われたのは、地球から2万光年離れた「一角獣座V838」だ。2002年に突然明るくなった特異変光星の5月から12月までの変化を追った4枚の写真だ。あたかも爆発して塵の雲が外へ広がっていくように見えるが、実際は中心から強い光が放たれて近くの塵から外側の塵へと7ヶ月もかけて光が到達して照らし出している様子だという。「光の旅の様」を見ているわけだ。光の速度が秒速30万kmとして、光が1年かかって届く距離が9兆4600万km。つまり1光年。そう、この写真集のほとんどは人間の尺度では考えも及ばぬ途方もなく遠い空間から、途方もない時間をかけて届いた遠い昔の姿である。私たちはこの壮大な宇宙空間から比べたら限りなくゼロに近い小さな存在であるが、それぞれの人生は多様で宇宙に匹敵するほどの思いや記憶、想像や創造、感情や理性を持っている。この無限とも思える宇宙を少しずつ解き明かし、観察もしている。人をむしばむ病や加齢についても真剣に研究している。捨てたものではない小さな生物。捨てたものではない人の一生。だから磨き続けようと思う。今のこの歳で今の自分に出来るやり方で。
たった一夜の軽井沢泊であったが、だいじな夜となった気がした。(2024年8月)
2024-08-18 22:17:27
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鯉のぼり
駿河湾は平坦なライトブルーの透明板を浮かべたように波もなく穏やかで、海を挟んで富士市の街並みは靄の中に沈殿し、富士山が雄大に凜々しく、しかしさりげなく視野を独占する。久しぶりに訪れた西伊豆の宿で日没までの小一時間をテラスで過ごした。穏やかな五月の始まりを演出する微風は海原の湿気を含んで少し肌に冷たく、潮の香りと新緑の木々が放つ爽やかなフィトン・チッドと混ざって、疲労と憂鬱で濁りかけた私の心を浄化した。ふとカラスアゲハがテラスをかすめるように数回行き来して舞っ行った。なかなかお目にかかれないカラスアゲハは私の中では母の化身と信じているので、今回の旅には母も同行して来たに違いない。それと時を同じくして仕事仕様のアラームが鳴り出した。毎日聞き慣れたアラーム音だが、休日に聞くと場違いでアラート以外の何物でもない。しかし意外やかえって非日常のたおやかな時の流れとシチュエーションを再確認できた気がして、不思議と満たされた思いが脳裏に浸透していく。そう、明日はこどもの日で日曜日、振替休日があるのであと2日間は仕事から解放される。そんな心のゆとりのなせる技か。
泊まった宿はなかなか高評価な宿で、今回予約が取れたのもよっぽど運が良かったのだろう。部屋は旅行情報誌に掲載されるような、模範的で端正な清潔感のあるコテージ風の造りで、半露天風呂まで付いている。何よりの売りは部屋のテラスから駿河湾越しに臨む富士山で、値段も高かったが年齢の割には夫婦して夜遅くまで頑張って仕事している褒美だと思い切って宿泊を決めた。夕食は広い空間のおしゃれなレストランで、テーブルもゆったりと配置され、感染面への配慮もさりげなく徹底していた。食事は私好みではなかったがなかなか洗練されていた。レストランのテラス席からベランダ続きにらせん階段を上ると、屋根を越える高さの円筒形のステージがあり「星見台」だという。夕食後に眺めたら北斗七星が頭上にきれいに見えた。さすがに天の川は見えなかったがsea levelに近い立地としてはまずまずな星空だ。部屋に戻ってコーヒーをいただく。私たち夫婦の取り決めとして宿ではテレビやDVDなどの映像媒体は観たり鑑賞したりしない。お互いが好きなことをゆったりと楽しむことにしている。二人ともたいてい小説や趣味の雑誌を読み、Bluetoothのステレオがあれば好きなプレイリストを流して心を潤す。
旅の途中の車窓から久しぶりに鯉のぼりを飾っている一戸建の住宅を見かけた。山梨県内だったように記憶しているが、2階のベランダから庭の地面まで斜めにロープを張り、鯉のぼりが数匹泳いでいた。珍しい飾り方だなと感じた。鯉のぼりと言えば、まだ父が若い頃幼児の私を抱きかかえ、二人とも満面の笑みで鯉のぼりのポールの前で撮影された白黒写真があった。今もフォトアルバムにはあるだろうが長年開いていないので変色してしまっているかも知れない。しかし改めて開いて見るまでもなくその写真のフレームは克明に私の脳裏に焼き付いている。おそらく父のもっとも幸福だった時期のワンカットだと一目見ればわかる印象的な一コマであったから。当時鯉のぼりは専用の竿竹があり、先端には矢車を付け、滑車を備えて国旗を掲揚するような要領で鯉のぼりを飾った。竿竹はかなり太くて丈夫で、用のない1年の内の大半は軒先に横に吊してしまってあった。鯉のぼりはたいてい祖父母や親戚が祝いに贈呈してくれたものである。私の鯉のぼりは誰が贈ってくれたかはわからない。飾る機会は年に数週間だし、おそらく数年、長くても10年には及ばないと思うので、ポールは軒先にいつの日か埃だらけになって、太すぎて物干し竿の代役のもならずに私が成人するまで家のパーツのように軒先にあったように記憶している。両親が老いて老老介護が不可能となり、家を引き払うときに処分した記憶がない。既に父が処分していたのだろう。どんな思いで鯉のぼりのポールを処分したかはもうわからない。
最後まで父はその古い住宅に固執していた。長男であったが父は実家を継がず家を出た。父を可愛がってくれた年の離れたいとこが長野市長になり、新しい市営住宅をいくつか建造した内の一つを優先的に提供され、私の両親と先に生まれていた姉が住み始めた。隣人にも恵まれ、待望の男児、つまり私を授かることが出来た。狭い住居の割に庭は広く、まさきの生け垣と赤いつるバラのプライバシースクリーンで囲まれ、ヒョロヒョロと背だけ伸びた桐の木、イチジクの低木、見事な大輪を咲かせる黒バラ、アヤメ、矢車草、マーガレットなど多種の花々が季節を彩った。草花好きだった母のキャンバスのような庭だった。父の父親は善人を絵に描いたようなgenerousな人だったが70歳で事故死し、長野県の女性史にも名が残る厳格で聡明な母、つまり私の祖母はゲーテの言葉をよく引用して物言いするような人だった。山スキーと大福餅、旅をこよなく愛した父にとって生家は少々居心地が悪かったのかもしれない。鯉のぼりの前の幼い私を抱っこした父の写真の笑顔はそれを物語っていたように思う。
伊豆からの帰りはフェリーで静岡港までショートカットして、新東名から藤枝、豊田松平インターから高速道を降りて県道に入り、山間の田舎道を延々と走って阿智村、中央道の飯田山本インターまでドライブを堪能した。山間にいくつか小さな家屋群はあったが鯉のぼりが飾られた家屋は見当たらなかった。おそらく高齢者ばかり住んでいて空き家も多いのだろうか。大きな家屋ばかりだがほとんどの窓は閉ざされ、少なくとも大家族が住んでいる住居ではないことは一目でわかる。しかしそこに住んでいる人々、おそらく誰それかの祖父母たちに当たる人達の脳裏には、私のそれと同じにかつて若かりし日に我が子を抱いて、鯉のぼりを仰いだり雛壇を眺めて満面の笑みをたたえた一コマが焼き付いているに違いない。高速道をひた走り家路に向かう西の空はヒアシンス色のくすんだ紫みの青に変わり、そして闇が訪れた頃私たちの今回の旅は終点であるわが家にたどり着いた。(2024年五月の旅)
2024-05-09 20:24:03
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ICN→SEA(ソウル→シアトル便)
もうすぐ節分とは言えまだ寒中だ。外気の冷たさを覚悟しながら、全身に覚悟しろよと総司令を発しながらクリニックの職員玄関のドアを開けた。一瞬キュンと外気が襟元に短いジャブを繰り出した気がしたが、一歩踏み出すと予想していたほど大した寒さではなかった。寒さが苦手なのでホッとする反面、微かに落胆もあった。信州の寒の内と言えば大気も凍り付く深閑とした氷点下が昔の常だった。私が受験生だった頃頭を冷却するために毎晩夜の散歩をしたものだが、二月の夜は風も止まり、地球から大気圏が消えて直接宇宙空間につながったように清閑な漆黒に恒星や銀河たちが恥ずかしそうに光を放ち、背の中央を警策(きょうさく、坐禅のとき、修行者の肩ないし背中を打つための棒)でぴしりと叩かれたような強烈で静かな寒さがあたりまえにあった。しかし今はその凜とした寒い夜はなかった。地球はこれまでも氷河期になってあたり一面凍ったり、恐竜の住んでいたジュラ紀には北極圏でも平均気温が15℃前後だったと言われているので、地球の気まぐれが少し動き出したのかもしれない。
今日も帰宅がこんな時間になってしまった。診療はたいてい18:30までには終わるのだが、書類書きや患者さんの診療録の復習、画像の読影などをしているとどうしても21時は回ってしまう。最近仕事にせよ日常の生活動作にせよ、処理・遂行能力が低下したのか時間ばかり先走って過ぎていく気がする。下り坂で小走りしたら、次の一歩を素早く踏み出さない限り前のめりに転倒してしまいそうな、そんな思いで一日一日を駆け抜ける毎日。だからすっかり暗くなった駐車場に佇むと必ず夜空を見上げてほんの一時の自分の時間をpauseさせる。たいていの場合同じタイミングでジェット機の音が西北西から東南東へと夜空を横切っていく。ソウル→シアトル便で、20:05に仁川(インチョン)空港を飛び立って、遠く太平洋を横切りシアトルに向かう便である。飛行ルートを調べると、離陸から1時間余で長野の上空を通過し栃木の宇都宮方面に向かってから太平洋に抜けて行く。DELTAエアラインとKOREANエアラインのシェア便のようだ。今頃機内では遅い夕食がサーブされているのだろうか。旅の期待に胸膨らませる乗客たちがいる機内の光景を夢想しつつ夜空を横切る機体のアンチコリジョンライト(飛行機の胴体の上と下で赤く点滅する)を見えなくなるまで追う。ある意味私なりのマインドフルネス(現瞬間の体験に意図的に意識を向けるが評価したりとらわれたりしない、シンプルに観ること)の時間と言えるかも知れない。
60歳代になると確実に自分も人生の後半戦にいて、たまに身近な周囲で起きるどんでん返しの現実を観ていると、今後の展開が見えない不安定で未知のシナリオに沿って人は皆が進んでいくのだと感ずる機会が増えてくる。しかしそもそもシナリオなんてないのかも知れない。英国の物理学者のジュリアン・ハーバーは時間そのものを存在しないとしていて、無数の静止した現在が少しずつずれた物質配置として存在して、人の脳がその無数の「現在」を認識することにより時間が流れるという概念が生ずるのだとしている(ブロック宇宙論)。簡単に言えばアニメの原理と同じで、少しずつ変化する静止した絵を連続で見るとあたかも動いているように見える仮現運動と似ている。ただ絵の場合は残るがブロック宇宙論では過去は存在しない。過去は次の「現在」の時点でもう存在せず、人の記憶の中にだけ残る。だから「今」を、「現在」をできるだけ高い品質にして積み重ねることが出来れば、記憶の中だけに存在する「過去」という時間が熟成するのだろう。
節分前にしては少し手ぬるいと揶揄したけどじっと佇んでいると冷たい夜風が耳元をすり抜け、ブルッと身震いが起きた。仰ぎ見ていた旅客機はシアトルに向けて東の空に消えて行った。「Bon boyage(ボンボヤージュ)」とつぶやく。半年前真夏の夜に、3億万㎞離れた地球の軌道円の反対側で同じように夜空を見上げていた自分は既になく、40数回前この軌道のこの位置にいて極寒の夜に散歩して夜空を見上げていた自分も今は存在しない。だが私の脳の中に記憶として熟成して残り続けている。人の脳に「bravo(ブラボー)!」。私の脳に「bravo!」。(2024年2月初頭)
2024-03-15 23:06:10
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誕生日
令和5年の師走は初旬から中旬にかけて最高気温が15度を超える日が何日か続き、自分が生まれてこの方人生の大半でイメージしてきた師走とは異なる冬の日が連続した。しかし下旬になるとようやく冬らしさを感ずるようになった。大晦日が当番医と言うこともあり通常診療を早々27日で閉じてしまったせいか、年末独特の「年の瀬」感がないまま24時間区切りの日々が繰り返して、あっさり新年を迎えた。昭和の時代を30年余も生きた人間にとってはなんとも味気ない年越しだが、時代とともにパラダイムも大きくシフトしてきて、昔に固執し過ぎるとどこかに歪みが生じて結局自分が無駄な苦労を背負い込んでしまうことが多いことがようやくわかってきた。乗れるときはできるだけ時代の波に乗る方がよいのだろう。だからおせち料理はお気に入りのフレンチレストランに任せきりで、生前母がこだわって一家総出で買い出しに出かけた新巻鮭をはじめとした縁起物の各種料理は 大半スキップすることにした。
年が明けていつもと変わらず仏壇の水と飯のお供えをしてお参りをした。もう習慣になっている。特に自分は信心深いわけではないけれど、洋風の家具調仏壇を居間に据えたものだから必然存在感があり、お参りが日課になるのに難しい理由は要しなかった。父は生家を継がなかったので、わが家の仏壇は当初両親の位牌だけだったが、父の代わりに家を継いだ気丈な叔母は、年老いて認知障害が生じたため私たちが支援することになった。しかしあっけなく最後は脳卒中で他界した。父の生家の仏壇終いの際に、ご先祖様の位牌は過去帳に変わってわが家の仏壇に一緒に祀ることになった。父は総勢6人の兄弟姉妹だったので、祖父母も併せると一挙に八尊の仏様が増えた。自分の両親を含めて十尊の仏様のうち私が知っているのは五尊のみで、あとは戒名と命日しかわからない方ばかりである。幼女のうちに他界した二人は赤痢などの伝染性疾患、20歳代で他界した二人は結核で亡くなったと聞いている。私の誕生をこよなく喜び愛でてくれた祖父は私が4歳の時交通事故で突然他界し、祖母と叔母と私の父のみが90歳代までの寿命を授かった。祖母は生前毎月夫の月命日には必ず庵主さんに訪問してもらって、読経後に食事を振る舞っていた。幼子を二人も伝染病で亡くしていたせいか祖母は生ものを一切口にしなかったし、厳格なベジタリアンでもあった。今風に言えばビーガンである。庵主さんの来られる日にはたいてい私の母に召集がかかり、母はひたすら野菜の天ぷらを揚げていた。母は喘息持ちで病気がちだったが、油酔いしながらも嫁の勤めと毎月頑張っていた。夜には仕事を終えた父や伯母も加わり食事を共にした。こうして月命日には生きし家族がみな集まり食卓を囲むのが明治、大正、昭和のしきたりだったのだかもしれない。何だか一族の絆を計る会食の場であった記憶がある。
十尊の仏様をかかえる私はと言えば、仕事がら月命日はおろか祥月命日ですら休みが取れないので、購入したふりがな付きの般若心経を僧侶に代わって読経し、お供えと言っても多くは自分の食べたいものが多いので寿司だったりステーキだったりピザだったりと、祖母に叱咤されそうなものを供える程度である。何年もこれをやっているうちに般若心経は空で唱えることができるようになったし、会ったこともない仏さまの戒名と命日も自然と頭に入ってきた。当家の菩提寺の住職は本当に戒名のセンスがよく、多少誇張しているとは言えその仏様の生前の生き様をよく表現した戒名を付けてくださった。気象台に勤務していたという叔父など、「雲を耕し行くべき道を求める泉や嶽(山岳)を愛した男子」と言う表現が入っていて、会ったこともないが彼の人物像が容易に想像できた。
しかし、過去帳には亡くなった日付しか記されていないので、何度も目にしていると「こんなうららかな桜咲く春の季節に・・・」とか「スイカを食べたりホタルを追いかけて楽しめたはずの夏の日に幼くして・・・・」とか、限りなく切ない思いが募ってきてしまった。位牌は墓石のミニチュア版のようなある意味硬くて厳格なイメージがあるが、過去帳は僧侶が手書きで記した一族の家族史のようで、会ったこともない遠い先祖様との交信ができる気がする。だが家族史としては没年のみでは悲しすぎるので、出生や婚姻などのめでたい年月日も是非とも必要とここ何年も感じていた。思いがけずぼやーっと過ごす年末年始だったので、ようやくそれを実行すべく以前何かの手続きに使用した戸籍謄本を引っ張り出して来て、各仏様の出生や婚姻入籍月日まで調べた。そしてそれぞれの没年月日の下にHBの鉛筆で誕生年月日を書き入れた。ちなみに私の両親の入籍日は12月、祖父母は1月であったことがわかり、長子の誕生日と合わせて考えると間髪なく子を授かる生きし日々の仏様たちのパッション(情熱)を感じられて思わずほくそ笑んでしまった。
正月早々今年も辛く悲しい天災と人災で幕を開けることになったが、報道を観るにつれ同情を通り越して悲しみばかりが募って来てしまった。仏壇の向こうの異次元におられる仏様たちはどのように俯瞰されているのであろう。自分も確実に人生の後半に位置していることを実感するものの、まだまだ世のために出来る貢献があるはずだと襟を正して、明日のお参りはきちんとその意思を仏壇の十尊の仏様方にお伝えしようと感じた。不幸にも命を落とされた方々に心から哀悼の意を表したい。ご冥福をお祈りします。合掌。(2024年 1月)
2024-01-25 23:09:28
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ブルーモーメント
不意に夜明け前の5時に眼が覚めてしまった。夜型人間の私においてはとても珍しいことだ。薄明(トワイライト)がゆっくりと朝の明るさへと窓越しに進んでいく。闇から夜明けへ、暗から明へ、音楽で言えばクレシェンドだ。日没後の薄暮と薄明とでは光度は同じなのかもしれないが、心理的には薄明の方が高揚感が勝ることがこれまでは多かった。しかし今日の場合は違った。疲れていたはずなのに意味もなく覚醒してしまったことへの不満が上乗せされたせいもあるが、昨日見た夕暮れがあまりに美しくて印象的だったから、今日の夜明けは一歩負けた感がある。
「ブルーモーメント(blue moment)」という事象があることを気象の本で読んだことがあった。天気の良い日没直後に、あたりの景色が極めて美しい青に染まる限られた時間(数分から十数分間)あると言う。幼い頃美しい夕焼けはさんざん見たが、そんなに美しい「青の時間」とはいったいどんなものなのかこの歳になってもいまひとつ想像が出来ずにいた。昨日妻の実家がある新潟県に墓参に出かけた帰りの高速道路でそれに遭遇した。海岸沿いを走っていた際に美しい夕日を横目で見ながら、ゆっくり停車して眺めようとしたがパーキングエリアにたどり着く間もなく日没は完成してしまった。少しがっかりしながら運転を続けていると、見たこともない深淵でかつ透明感のある青の景色が海の方向に展開した。ユーミンは夏の空を「空色」、秋の空を「水色」と唱ったが、そのどちらとも異なる宇宙観が漂う青で、それこそガガーリンが宇宙空間から眺めて「地球は青かった」と表した青に近いのではないかと想像する。運転中だったので助手席の妻に何枚も写真を撮ってもらったが、あの青の深度と透明感は反映できなかった。妻も助手席に座っていたので、実際の青の世界を、窓の形に切り取られた一部分しか見えなかったことだろう。
そう言えば私たち夫婦はそろって空を見るのが好きである。国際宇宙ステーション(ISS)の軌道をインターネットで検索しては頭上を通過する時間に合わせて外に出てそれを眺めたり、何度か訪れたハワイ島マウナケア山から眺めた満天の星を思い出しながらYou Tubeですばる望遠鏡にある定点カメラの星空映像を観たりしている。だからすっかりドラマやバラエティーのテレビ番組を観なくなった。毎日の診療で多くの方々の疾患を診察するに当たり、背後に見え隠れするその方の人生をくみ取ったり配慮しなくてはならない。だから人生ドラマは生でたくさん遭遇することになる。また、さまざまな診療情報を得たり記録に残すのは全てコンピューターである。一日少なくとも8時間はそうした人との関わりをこなし、12〜13時間はコンピューターに向かっているので、大脳の前頭前野がフル稼働状態になってしまう。ヒトの脳には、デフォルトモードネットワークと言ってコンピューターで言うとsleepの時間が必須と言われている。この時間帯にヒトは記憶を整理したり将来のシミュレーションをすると言われている。だから私たち夫婦にとってのデフォルトモードネットワークがすなわち空を眺めている時間なのだと思われる。それにしても昨日の「ブルーモーメント(blue moment)」を停車してじっくり見れなかったのは悔やまれる。
けっきょく昨日は二箇所の墓参をした。一箇所は山の中腹の林の中で、晩夏の蝉が懸命に鳴いていた。人影もほとんどなく、苔むした墓石に花を手向けて語りかけた。もう一箇所は海辺の寺で、木漏れ日が眩しく暑かったが、木立が漂わせるフィトンチッドとマイナスイオンでむしろ心地よさを覚えた。生きていくと言うことは様々な喪失に遭遇してそれから癒えていく繰り返しであるが、重ねていくと墓参の意味も理解できてくる。若い頃墓参りは正直なところ義務感で行う行事と捉えていた。しかし今は異なってきていることに自分ながら驚く。歳をとったと言うことだろうか。もし故人の魂が次元を超越して存在するのなら、きっと昨日垣間見たブルーモーメントは、その魂たちの返事だったのかも知れない。(2023年8月下旬)
2023-08-21 12:17:27
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諏訪とわたし
諏訪湖の対岸の西の山に太陽がうすづき(春き)、少し毛羽立ったような厳冬の暗い水面に一筋の輝く光の廊下ができた。ダージリンを飲みながら足を投げ出して、なじみの宿の窓からぼんやりと眺める。やがて陽は隠れ、それでも余韻を残すようにあたりはしばらく闇から逃れていた。窓越しに体が急に冷えてきた気がして温泉に入ることにした。いつもはシャワーで済ましてあまり湯船に漬かる習慣がない私にしては、ずいぶんの長湯をした。暮れなずむ諏訪湖の景色を見ながら日常の疲労と緊張を溶かすように湯船に身を預けた。上気して風呂から上がった頃には、湖は空のランプブラック*と区別がつかなくなり、この二つを分けるように対岸の街並みの灯りが瞬いた。普段では考えられないようなゆったりした時間が訪れては去って行く。[*:ランプについた煤のような黒]
何年か前から正月はこの定宿で過ごすことにしている。普段読む間がない趣味の本を読んだり、温泉に漬かったり、ぼんやりしたり微睡んだりするが、テレビは一切観ないし、観光もしないというポリシーは守り続けている。家にいると年賀状の心配やら、初詣の算段やらで、結局休んだ気がしないまま、夜はおめでたいテレビ番組に時間は費やされ、貴重な休暇がベルトコンベアの上に載った品物のように流れ去ってしまう。だから少々贅沢でも正月は温泉宿で過ごすとに決めた。この時期の諏訪湖は特別目立ったアトラクションもないし、都会人が好むような洗練された遊興施設もない。白鳥の形をした平凡な遊覧船と足こぎボートが寂しそうに繋留されている程度である。とりわけ惹きつけられる祭事もなければ見所もない。だから寒々とした湖面を眺めながら、自分たちだけの珠玉の時間を手繰ることができる。
諏訪は私が大学時代に車の免許を取ってから両親と姉を連れて訪れたのが最初で、諏訪大社でお参りをしたり、名物の塩羊羹や大社せんべいを買って帰るデイトリップを何回かした記憶がある。長野県は南北に長く、文化圏が北部、中部、南部で異なっているので、県内を旅行するだけでも新鮮な旅行気分を味わえる。諏訪市はちょうどよい距離にあったこともあるが、私の実家の所在地が長野市の新諏訪町と言う町名であったので、なじみやすかったのかもしれない。新諏訪町の鎮守は諏訪神社と言い、後から知ったことだが御祭神は諏訪大社と同じ建御名方命(たけみなかたのみこと)であった。思えば初めて大学進学で新潟市を訪れた際に、新潟に着いたら頼っていくようにと知人から紹介された方も、訪ねてみると医学部のある旭町通に鎮座する「(寄居」諏訪神社」の宮司さんであった。その神社の御祭神も言わずもがな建御名方命であった。大学時代に知り合って結婚に至った妻の母の生家は、新潟県柏崎市の諏訪町という地名にあった。ただこの町名の由来はよくわからない。そして月日は流れ、土地選びに数年の歳月と苦労を要した現在のクリニックの開業地は廣田神社のお膝元で、この神社の御祭神も建御名方命であった。博学な患者さんが、長野県内の神社の祭神は武田信玄の命で建御名方命を主神に変更させられたケースが圧倒的に多いのだと教えてくださったが、武田信玄とは敵対していた上杉謙信のお膝元新潟でも自分と「諏訪」との結びつきがあったことを思うと、もう自分は諏訪大社や建御名方命を崇めるのは必然の気がしてきた。そんなわけで正月の束の間の安息を、「素(す)」で過ごす場所として諏訪を選んだ経緯がある。
宿をチェックアウトしてから諏訪大社上社に詣でた。COVID-19 がパンデミックになって3回目の正月で人々も分散参拝に慣れたのか、思ったほどの人手ではなかったが、過去2年に比べたら大分賑やかにはなってきていた。私たちは参拝を済ますと毎年定位置に陣取るだるま屋の露天商で2つのだるまを購入した。値切り交渉はあまり得意な方ではないが、「もう少し安くならない?」と言ってみたら500円まけてくれた。あっさりその言い値でオーケーしたら、がたいのいいお兄さんは「ありがとう、2つも買ってくれたから・・・」と礼を言って、干支の根付けを記念にくれた。彼の雰囲気からはとても想像つかないような可愛らしいウサギの根付けであった。ウサギと言えば建御名方命の御尊父さまが「因幡の白ウサギ」の有名な逸話を残している大国主命である。ひょっとするとあのがたいのいいだるま売りのお兄さんは建御名方命の遠い遠い末裔なのかもしれない。大社せんべいと塩羊羹を土産に購入して、私たちは家路にについた。こうして今年も、縁のある諏訪の地、建御名方命のお膝元で、束の間の尊いやすらぎの時間を授かり、今年1年のための初回充電を完了させた。年々充電がすぐ切れてしまうようになって来て、魂のバッテリー性能が低下しているのかもしれない。しかし魂はすなわち神経活動。神経は生まれてこの方同一の細胞が生涯を共にして、余裕で120年間の寿命を持つと脳化学では言われている。つまり性能が落ちているのではなく、性能を保つメンテナンスの術が悪いのかもしれない。確かに魂を磨くことを、いや、磨く術を忘れかけているような気がする。(2023年正月)
2023-02-05 18:34:58
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緑への思いと冬の花火
1年の中で5月が最も好きな理由の一番は視覚的な理由で、屋外に出たなりに私を包む景色の大半を占める色、それが緑色(Green)で、それこそ自分が最も愛する色だからである。しかし、緑にも様々あって、季節毎に少しずつ変遷していくのは実に風情がある。生まれてからこのかた数十年も緑の色とひとくくりにして、その微妙なバリエーションを漫然と感受してきたが、スマホで色を判別できるアプリを見つけてからというもの、景色を撮りまくっては色の判別に興じている。
今年の5月1日は日曜日だったので、春の山里に愛車を駆って出かけた記録がPCの写真アルバムに残っている。小鍋の善光寺温泉跡を右手に見て葛山落合神社や御射山神社を経由して県道戸隠線に合流するルートが私のお気に入りのドライブコースで、そこからりんご畑越しに佇むひとかたまりの山村と、遠くに抱(いだ)くように連なる山々が私の最愛の心象風景に近いものだと思っている。自分の心が疲れ切っている時にいつも訪れる場所で、礫岩(れきがん)のように固化しかけた魂がホイップクリームのレベルまで甘く溶けてリラックスする。その日の山肌の景色はまるでパッチワークのようで、常緑樹の“ボトルグリーン”(ごく暗い緑)をバックに、各所で背伸びするように若葉の“萌黄色”(もえぎ:明るい黄緑)、“シーグリーン”(つよい黄緑)、さらには“抹茶色”(やわらかい黄緑)がそれぞれ自己主張していた。植林された常緑樹の山林はモノトーンで色の統一性があるので、整然と清涼で心を浄化するようなある種きりりとした風圧を送ってくる。しかし今日の景色のように広葉樹の若葉たちがそれぞれの種や個体を伸びやかに主張して、それぞれの異なる緑で自己表現するパッチワークは、気持ちを前向きにしてくれるし、見ているだけで心がウキウキ引き込まれる陰圧を感ずる。
5月後半の緑たちも実に潤しい。若葉は成長し葉の密度が増して、“アイビーグリーン”(暗い黄緑)、“リーフグリーン”(強い黄緑)、“オリーブグリーン”(暗い灰みの黄緑)が主流となる。そしてこの頃の空は、晴れていると”つゆくさ色“(あざやかな青)であることが多く、緑との相性は私の中では随一だと思う。この時期の昼下がりに大座法師池を散策すると、手前に鏡のような湖水、対岸にアイビーグリーンの林、その上に銀白の積雲が連なり、中でも勢いがいいのは入道雲のなりかけている。そこからつゆくさ色の青空を挟んで絵筆でピンとはじいたような上層雲の巻雲がアクセントとなる。その日の雲の物語のあとがきを表しているように見えるフォトもアルバムに記録されている。こうした景色を前に、私は大きく長い息を吐いて、その倍の量のフィトンチッド(リフレッシュ効果などの森林浴効果をもたらす森林のかおり)を含んだ空気を胸いっぱいに吸い込んだと思う。
こうして5月の緑を思い、文章をしたためている今、外では雨の中えびす講の花火が上がっている。そう、今日は勤労感謝の休日で3年ぶりの花火大会だ。先ほど傘をさしてさわりの部分を短時間だけ鑑賞してきた。巧みを懲らした見事な花火だったが、空は涙をポタポタ落として泣いている。軽症化してきたとは言えCOVID-19 が第8波に突入して、マスコミは花火の中継と並行して患者罹患数が増えた増えたと不安を拡散している。世界では、わがままなろくでなしの独裁者たちが、勝手放題、悲劇的なカタストロフィーに人々を巻き込もうとしている。こんな世界情勢や心理背景で雨が降りしきる中の花火を観るのは重すぎる。かつては隣人を誘いおでんを炊きながら花火を楽しんだわが家の前の道路は冷たく黒く濡れていて誰も居ない。だから私はiPodのノイズキャンセリングを作働させて、J.S.バッハの無伴奏チェロを聞きながらこれを書いている。5月の緑と無伴奏は温ったかご飯とビスケット位に合わないけれど、自分の中の心模様、そうちょっとしたカオスを表しているようだ。
と、妻が花火の終焉を一緒に見ようと誘った。渋々ダウンジャケットを羽織りニットの帽子を被って外に出てみた。雨はいつしか上がり、夜空一面をビタミンカラーの花火が覆い尽くしていた。従来の祭り心を煽るようなたたみかけのスターマインはなく、一つ一つ噛みしめるように丁寧なアートを空に打ち上げ、その間隔が次第に狭まったと思ったら、ふいに低い位置に横長の花壇に咲く背のそろったガーベラのような花火が一斉に花開き、一呼吸置いてその上空をノスタルジックなモノトーンの数え切れない程たくさんの大輪が埋め尽くした。花火師たちの「精一杯頑張ろう」と言う、込められたメッセージを強く感じた。久しぶりに見た空いっぱいの元気だった。自虐的に無伴奏を聞いていた私のねじれた気持ちは払い腰で見事に払われて、前向きな意欲が頭をもたげた。さあ、来年の5月の緑がより気持ちよく味わえるようにと心に念じながらこの文章を終わろう。
(2022年11月23日 えびす講花火の夜)
2022-11-24 22:27:22
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真夏の憂鬱と入道雲
真夏の一日の診療が終わった。身も心も疲れて「元気」から遠ざかった人たちがたくさん受診された。合間にCOVID-19 のワクチン接種もした。一筋の日射しも入らぬビルの谷間をひたすら歩いているような、そんな閉ざされた思いを世界中のみんなが感じている。それでも暑くじりじりと焦がすような日射しは何食わぬ顔で地上に放射し続け、夏は普通に過ぎていく。30℃を超えた昼間が終焉に近づき、夕方が来た。一息つこうと窓に近づき恐る恐る開けてみると、案の定熱風が吹き込んできた。6時半とは言え、夏の日は長い。あたりはまだ昼下がりの延長線上。クリニックの正面玄関から出てみると、コンクリートのアプローチ、駐車場のアスファルトが昼間蓄えた太陽熱をムンムンと放熱している。一日中空調の中にどっぷり浸かって身体表面だけ冷え切っていたので、その異様なほどに高温の放射熱が不思議にも一瞬だけ心地よく感じた。しかしそれも束の間、1分もすると玉の汗が吹き出てきた。少年だった頃は空調などなかったので、やはり夏は半端なく暑かった。だが当時の暑さはどこか透明感があったように思う。汗もさらさらで乾いたあとに清涼感が残る汗だった。最近の暑さは、大型トラックやバスのエンジンフードの脇に立った時に味わうような、濁っていて、押しつけられるような圧迫感を伴う暑さのように感ずる。
山並みに眼をやると、はるか上空に沸き立つように背伸びする見事な入道雲がいくつも成長していた。日中の日射しの強さの成果を主張しているようだ。東側の入道雲は強い上昇から既に一転崩れて下降へと変わり、やけに冷たく強めのダウンバーストを吹き付けてきた。窓越しに木々が揺さぶられ、窓ガラスの小刻みな振動が風の強さを伝えてくれる。夕立が来る気配だ。遠くで雷鳴も聞こえ始めた。そう言えば母は雷が大の苦手で、大人げもなく怖がったものだ。だから姉や私が幼かった頃、「雷様さまに臍を取られる」と言うお決まりの迷信を説いて聞かせ、雷鳴が近づくやいなや私たちを巻き込んで押し入れにこもったものだ。エアコンもない部屋の真夏の押し入れで3人身を寄せ合ったわけだが、暑さに閉口すると言うよりは、冒険ごっこみたいな少々のわくわく感と、本気で怖がる母の子供っぽい一面を見て子供ながらにシンパシーを感じたものである。しかしほどなく少年へと成長した私は虫取りと魚釣りに夢中になったので、もう母の押し入れ籠もりには付き合わなくなった。そして、夕立は魚釣りと虫取りを台無しにするので、それを引き起こす入道雲は嫌いになっていった。少年時代も終わり虫取りもしなくなると思春期に入り、もう入道雲はどうとも思わなくなっていった。
ところがここ十数年私は一転して入道雲が不思議に焦がれるほど好きになった。いわゆるゲリラ豪雨や熾烈な災害をもたらすスーパーセル(巨大積乱雲)ではなく、日本サイズというか、夏の日の締めくくりの夕立をもたらす程度の入道雲が私の好む積乱雲である。しばらく窓から眺めていると、雲は秒単位で形を変え、太陽の光を真っ向から受けた先端部分は限りなく白く輝く。その白さは色彩図鑑の白の定義をはるか超越した、マグネシウムが燃焼するときの閃光のような白で、破格の光量を浴びせてくる太陽に堂々と立ち向かう勇者の横顔のようだ。見ている者のしぼんだ心を叱咤激励してくれる。あの強烈に白く輝く先端には、どんな世界があるのだろう? 別の宇宙空間への入り口があるのかも知れないと思うほど神秘なインターフェースだ。その場に立ってみたい気もするが、厳かすぎて恐れ多い。
今日の診療では、高齢者に交じって数人の真っ黒に日焼けした元気な十代の子がいて、その張りのあるきれいな腕にワクチンを打った。施注しながら何故かその子らからすごく貴重なエネルギーをもらったような気がした。こんな毎日の中で自分の中で若さがすっかりしぼみかけていたから、成長盛りのはち切れんばかりの無邪気な元気や勢いに激励してもらったのかも知れない。入道雲を見た時と似ている爽快感を覚えた。
とにかくCOVID-19 のパンデミックで社会も人の心も狭い容器の中で真空密閉されたような閉塞感が支配する日々の中で、こうした底抜けに力強くプラスのエネルギーを感じる瞬間がある。ムクムクと上昇するエネルギッシュで白く巨大な入道雲の痛快さが、少し老いて元気のない今の自分には一番のリバイタライザー(元気や生気を復活させるもの)なのかも知れない。早くこの夏の風物詩である入道雲を、リバイタライザーとしてではなく自然界の荘厳な一現象として、普通に見られる日が来ると良いとつくづく思う。フェイスマスクなど取り去って、普通に語り合ったり笑い合ったりして、夏の祭りや花火を集って楽しめる日が来ると良いと心から願う。
(真夏日の診療の後で。2022年8月)
2022-11-24 22:25:42
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