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院長エッセイ

長野市稲里町田牧 の 脳神経外科・神経内科 脳とからだの くらしまクリニック

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ドライブの勧め

ドライブの勧め
  久しぶりに見る木々は、季節を象徴するように紅や黄、ゴールドのモザイクで秋色へと衣替えした。公園のベンチでTully’sからテイクアウトしたコーヒーと、妻お気に入りのパン屋で買ったBLTとベーグルサンドがブランチのメニューである。10月は地域の講演会の講師依頼があって、その準備のため休日は外出もせずに終日コンピューターに向かって過ごすことが多かった。平日は帰宅が夜遅いので、朝の通勤の時にしか季節の変化を眼にすることができない。楓の紅やイチョウのゴールドが、鮮やかすぎて軽く眼に痛みすら覚える。でもそれは心地よい痛みで、コロナコロナで停滞した感性のせせらぎを浄化し、脳裏に澱んだ不安や憤懣を払拭していく。
ブランチを済ますと、久しぶりに少し遠くまでドライブしようと言うことになった。目的地は特に決まっていない。いつもそうであるように、私たちのドライブはまず雲のない空が澄んでいる方角に向かって走り出す。窓外の風景やその日の気分で候補地が絞られ、過去の記憶の後押しで目的地が決まっていく。
   思い返せば私はおそらく標準よりかなり長い時間をドライブに費やしてきた方だと思う。大学は新潟市にあり、日本海に面した海の気候は長野育ちの人間にはとてもきびしいものだったので、車は必需品と言ってよかった。裕福とはとても言えない家庭だったが、両親は大学生のわがまま息子のために中古のカローラクーペを買ってくれた。思いがけず手にしたカローラは実によく仕事した。通学はもちろん、大学から18kmも離れた好条件の家庭教師のアルバイトにもありつけた。帰郷すれば家族を連れてあちこち遠出のドライブに出かけたり温泉旅行にも行くことができた。もちろん車好きの仲間と夜ごとドライブに出かけた経験は、私の大学生活の思い出のトップランクに位置している。
    妻とは大学時代に知り合ったが、二人で過ごす時はいつも車が欠かせなかった。妻もドライブ好きで、天気がよければ海を見に、新緑がきれいならば山に、星がまたたく夜ならば弥彦山の頂上に、霧深かければベールを被った神秘な街並みを探索しに、見知らぬ道を探してドライブに出かけた。本当に信じられないほど様々なところへ車で出かけたものだ。学生時代は体力も充実、時間はとてもフレックスだったので、近隣県であればほとんど躊躇無くデイトリップに出かけることができた。山形県のサクランボ狩り、紅葉を見に阿賀野川沿いに福島の会津若松まで、暑ければ志賀高原へ涼を取りに。夏ともなれば延々と続く海岸道路を流しながら、好きなビーチで海水浴を楽しんだ。特にお気に入りだったのが、日本百名道のひとつでもある越後七浦シーサイドラインで、昼間は海の絶景と、夜は明かりを灯して漁をする漁船たちが遠く波間に揺れて神秘的であった。きっと走行距離はプロドライバー並みだったと思う。
  それだけ走れば運転技術は必然向上するし、様々な場面に遭遇するので経験値も上がってくる。道は自分だけのものではなく、他車の自由を無視したりするとこっぴどくしかられる経験もした。必然自分と他車との関係性をできるだけ瞬時に理解して、お互いが気持ちよく走れる関係性を保つ、言わば「車交際術」が身体にたたき込まれた。つまり時間軸を加えた4次元の中で自車の位置や振る舞いを客観的に捉える能力が育くまれた。それだけに昨今の交通マナーにおけるパラダイムシフトには大きな戸惑いを覚える。巨視的な、はやり言葉で言えば「俯瞰的な(ふかんてきな)」視野で見て運転している人が少なく、総じて自分が優先、他車への気配りは欠け、ひどいときはスマホやテレビを見ながら蛇行運転をしている人もいる。いらいらした後続車をたくさん従え、のんびりマイペースで追い越し車線を走行している車が多く見かけるように思う。
  交通マナーと言えば強く感銘を受けたのはカナダを車で旅行したときのことであった。都心ではなく観光地であったせいもあるが、ドライバーたちは皆穏やかでジェントル、それでいて他車の挙動には極めて敏感で、少しでも自分より速度が速い車が後方から近づいてくると路肩に寄って減速、先行させてくれるのだ。日本では考えられないほど長い工事用信号で停車すると、皆エンジンを切り、外に出てストレッチをしたり景色を眺めたりして思い思いに待ち時間を過ごすのだ。こうした環境ではクラクションで威嚇したり、まくり運転などは必然的に生じようがない。車だけではない。空港や駅で並んで順番を待つ時などでも、できるだけ他人の進路を妨害することを避け、お互い適度な距離を保てるように視線で語りかけたり声をかけたりして上手に調整するのだ。背中に眼があるのではないかと思われるほどその敏感さは驚くほどで、おそらく幼少の頃より他人との距離感の保ち方や他人の自由や意思を侵害しない関係性について、徹底的にしつけや教育がなされるのだと感じた。様々な思想や宗教の多民族が集まる国ならではの常識であり生き方なのかもしれない。
  今日のドライブのBGMは最近お気に入りのギター曲集を選んだ。ゆったりとしたバッハのカンタータの演奏にマッチして、車は真田町の山間のたんぼ道を走っている。林檎の実は赤や黄色にたわわに実り、その背後の山は光合成を終えた木々を擁して、晩秋の澄み切った青の空にもたれかかって一休みしているかに見える。私たちの心も大あくびしたので、車を止めて林檎の実をバックにスナップ写真を撮った。今日のドライブも100点満点の出来とばかりに特上の秋のスナップが撮れた。何歳までこうして二人でドライブを楽しめるだろうかと少しの不安と、大きな期待と夢を心に帰路に着いた。(2020年11月8日)

2021-01-16 19:43:00

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雌のカブトムシ

雌のカブトムシ
 久しぶりにきっぱりとした夏の日。長い梅雨がようやく明けて初めての土日、クリニックは二連休だ。普段は屋内ばかりに居るので、夏の日射しは眩しすぎるくらいに明るい。頭上から容赦なく照りつける盛夏の太陽は、木々の葉の一つ一つまでくっきりとしたシルエットを地面に投影して、夏模様を描画していく。柏崎で親類の法要に参列後、海岸からほど遠からぬ寺院へ墓参に来た。街並みから隔離された墓地の木立は昆虫たちの天国で、蝉時雨が僧侶の読経を伴奏に変えた。線香を上げる間も、キアゲハ、そして次はカラスアゲハと、広いストライドで駆け抜けるアスリートのように、蝶が優雅に舞っていく。少年の頃から無類の昆虫好きだった私には、何と心地よい情景だろう。私の目の前のランウェイを、それぞれの個性を主張して通り過ぎていく昆虫たちを見ていたら、子供だった頃の夏へのノスタルジアのドアが開いた。
 少年時代の私はカブトムシとクワガタにほとんどの夏を捧げたと言っても過言ではない。夏休みには実家に程近い頼朝山へ毎日昆虫採集に出かけた。頼朝山は、豊富な甲虫類を授かることができる、私にとっては聖なる山であった。毎日1回、時には2回出かけたので、虫が居る木は隅から隅まで知り尽くしていた。採った虫たちは飼育箱でだいじに飼って、暇さえあればその生態を眺めて満足していたものだ。
 カブトムシと言えば、母が亡くなった夜、不思議なことが起こった。葬儀の段取りなどで疲れ果てた私は、深夜夕食を求めて近所のコンビニに立ち寄った。買い物を済ませて出ようとしたとき、入り口のマットの上に仰向けでもがいているカブトムシを見つけた。手に取ると立派な雌のカブトムシであった。コンビニの灯りに吸い寄せられて飛来したのだろう。その瞬間、これは母だと直感した。母は私が少年時代夢中だったカブトムシに姿を変えて現れたのだと。脳卒中で体が不自由だった母は、遠く神戸に嫁いだ姉が介護をしたいので一時期あずかりたいと申し出てくれて、姉の家で療養していたが、そこで次々と苦難の合併症に見まわれ病態が悪化した。結局長野に戻ることができなくなり、遠く故郷を離れて永眠した。そんな母の魂はさぞかし帰郷したかっただろうと想像できる。私はそのカブトムシを取り上げて服の胸にとまらせた。そして、抱きかかえるようにして家まで連れて帰った。不思議にカブトムシは私の胸元から逃げようともせずしっかりしがみついたままだった。小一時間カブトムシはカーテンの上でじっとしていたが、就床直前に庭の沙羅の木にとまらせてあげた。翌朝確かめると、カブトムシの姿は既にいなくなっていた。沙羅双樹は、お釈迦様が入滅した場所に生えていたとされる木である。母の魂も無事に旅立ったのかもしれない。
 その時以来昆虫は亡くなった人の化身という私の思い込みが定着した。モンシロチョウを見れば自分をこよなく愛してくれた祖父だと思い込み、キアゲハを見れば叔母だと感じた。母がカブトムシに化身したのは一度きりで、その後はカラスアゲハやクロアゲハとなってことある毎によく現れた。頻繁には現れないけれど風に乗ってふいに訪れるオニヤンマやギンヤンマは父だと思う。
 こうして私は昆虫を見ては故人を想う。故人の様々なエピソードやシーンをニューロンのネットワーク、つまりセル・アセンブリ(細胞集成体)をフル稼働して再生する。何度も何度も。しかし、このセル・アセンブリも私の脳の活動が健康である前提のもとでしか存在し得ない。開業して6年、初診時は軽度認知障害もしくは軽い認知症だった患者さんたちの海馬は月日と共に菲薄化し、大切なセル・アセンブリが無情にも確実に奪われていく。その様を日々観察していると、やるせない想いが私を満たす。かけがえのない大切なニューロンの活動を何とか健康に保つすべはないものかと、歯がゆい思いと憤怒に似た感情が日々私にジャブを繰り出してくる。そもそも人の生涯は一度きりしか上映されない映画のようなものだから、観た者がきちんと脳裏で再生して、そして何らかの形で記録に残すことが、その人がどのように生きたかの証となる。自分の大切な人のことはこうして随筆などの文章にして、そして患者さんのことは診療録の中に、せっせと労を惜しまず記録していかなければならないと痛感する。
 お盆もすぎ、あのうだるような暑さはあっさりと去った。今日は母の月命日だ。ふと窓外を黒い影がよぎったので窓に近づいてみると、見事なカラスアゲハが楽しげに庭を舞っていた。間違いなく母だろう。私にとっての昆虫は、いまは亡き大切な人々を回想するための使者なのかもしれない。
(2019年8月)
 

2019-08-25 22:37:56

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ヤマトシジミ

ヤマトシジミ
  
IMG_4626 (1).jpg 季節外れの台風が、南の夏を連れて日本海を北東へとゆっくり通過していった。連なる高峰(こうほう)に守られた長野盆地にしては、珍しくやや強めの風が吹いて、秋の中盤を謳歌する木々や草花が揺れた。このノスタルジックな夏っぽい風が去ると、今度は打って変わって秋が深まった。久しぶりに晴れ上がった肌寒い昼下がり、車に乗ろうとしたらグレイの羽が折れて変形した小灰蝶(シジミ蝶)が地面に横たわっているのが目に入った。ヤマトシジミだ。そっと羽をつまんで拾い上げるとまだ息があり、羽ばたこうともがいた。8月終わり頃から、出勤時にほぼ毎日飛んで来ていたのに、ここしばらく見かけなかったので何だか懐かしささえ覚えた。
 ちょうどヤマトシジミを気にとめるようになった少し前に愛犬を失った。実によくできたかわいい犬だった。俊敏でよく駆け回る様を見て、義父が「駿」と名付けた。男の子だったので幼犬の頃はやんちゃだったが、成犬になってからは素直で聞き分けがよく、性格がまっすぐで純粋、やきもちをやいたり拗(す)ねたりなど、変に人間ぽいところは一切なく潔(いさぎよ)かった。何よりありがたかったのは同じドッグフードを文句ひとつ言わず毎日喜んで食べたことだった。少々体調不良で元気が今ひとつでも、与えるご飯はいつも完食した。だからすぐに元気になった。どこに行くにも一緒に連れて出かけた。連れて行けない時は、朝から晩まで家を留守にしても、暗い部屋でじっと寝て待っていて、私たちが帰宅すると飛び跳ねて喜ぶ子だった。海外旅行に行く時は友人宅に預けたが、その家にもすぐに馴染んで、我が家の犬のように可愛がっていただいた。物怖じしない子でテレビ出演も3回した。アニマルセラピーで、少し乱暴な子に引っ張り回されても文句ひとつ言わずに従った。生涯で人を噛んだことは一度もなかった。
 クリニックを開院してからは必然終日院長室で過ごした。朝出勤してから診療終了するまでの長い時間をただひたすら院長室で寝て待った。昼時にはクリニックのスタッフからおやつをもらえるのを何よりの楽しみにしていた。院長室の私の机の下がお気に入りで、仕事に区切りがついて院長室に戻ると「ごくろうさん」と云わんばかりにのっそりと出てきたものだった。
 晩年は歩くことが困難で立ち上がることもできなくなった。しかし食欲は落ちることなく、決まって朝はヨーグルトとミルク、昼はスタッフの膝枕でフードを口まで運んでもらい介助されながらほぼ完食した。夜は食べたり食べなかったりであったが、私が栄養不足と判断した際は栄養ゼリーを注射器で口に流し込んであげた。最初多少は抵抗したが、その後はそういうものだと観念したのか、ごくごくと上手にプロテインやビタミンゼリーを嚥下した。そんな寝たきりの老犬になっても駿は実にイケメンで、若い精悍さから転じて丸みを帯びておっとりした愛くるしさへと脱皮したようだった。紛れもないアイドルの座はキープし続けた。
 8月に入って突然痙攣発作が止まらなくなった。原因はわからなかったが、痙攣止めの注射を驚くほど大量に使わないと止まらなかった。人間ならばとうに呼吸が止まっておかしくないと思いながら私は痙攣の度に注射を繰り返した。しかしとうとう恐れていた肺炎を併発した。最後の日は、かねてから自分の定位置だったソファーに力なく横たわり、痰が絡まり呼吸が苦しそうだった。電話で問い合わせたら動物病院で喀痰を吸引してくれるというので、さあ行こうと抱き上げた。抱っこされるのがあまり好きでなかった駿は、抱いた際に身を預けてくることはめったになかったが、その時は駿の顔が私の頬にピタッとくっついた。それが最後の力ない頬ずりだったようで、車のシートに横たえたときにはすでに事切れていた。
 駿が去ってから気違いみたいに暑い日々が続き、心の中の海が枯れていき、底には尖って辛い塩の結晶ができた。悲しさと寂しさは日ごとに募った。心がよれよれのしわだらけになっていた頃、毎朝重い気持ちで玄関を開けると必ず小灰蝶がやってきた。自家用車に乗るまでのほんの十数歩の間に私の周囲を戯れるように舞った。何度か見ているうちに、これは駿の化身ではないかと思うようになった。雨の日以外は本当に会わぬ日がないくらいに蝶はやってきた。駿の化身という直感は確信へと変わった。来る日も来る日も会うたびにエネルギーをもらった。それから雨の日が続いて、台風が来たりで悪天候が続き、やがてメランポジウムは枯れだして、ヤマトシジミに会う機会もめっきり減った。駿の化身に会えないことでまた一層密度を増した寂寞が私たち夫婦をすっぽりと包むようになった。
 ヤマトシジミは羽化してから2週間ほどしか生きないらしいので、私の足元に瀕死の状態で横たわっていた蝶は8月から見ていた蝶と同一ではなく、おそらく何代目かの蝶かもしれない。私の手のひらで最後の力を振り絞ってうごめく蝶を家の中に持ち帰り、手向けたばかりの仏壇の黄色の菊の花弁に乗せてあげた。するとヤマトシジミはシャキッと花弁に留まってとうとう一晩過ごした。しかし翌日には少し元気になったのか菊の花から何度も飛び立とうとして落下した。でも羽は折れて曲がったままだ。その仕草を見ているうちに、今度こそお別れだと蝶が主張しているように思えた。だからヤマトシジミをそっと捕まえ、玄関のメランポジウムのプランターに離してあげた。花は既に枯れて茎が茶筅のように残っている茂みの中へと蝶の姿は消えてついに見えなくなった。 「さようなら駿、ありがとう」と、心の中でつぶやいた。
(20018年10下旬)
 

2018-11-11 22:44:56

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鳩時計

 五月が来た。こよなく愛する季節。空はライトブルー。瑞々しい青だ。色の図鑑で探してみると、「勿忘草(わすれなぐさ)色」が最も近いように思える。花の色から由来するらしいが、潤いのある明るい青だ。古代中国の五行説では、四季にそれぞれ色が当てられ、春には青を当てられたという。人生を四季に当てはめると、夢や希望に満ちて活力みなぎる若い時代が春であり、これが「青春」という言葉の語源になったようだ。久しぶりに晴れ晴れとした気持ちよい日なので、冬の間、果物や野菜のコンテナ置き場と化していたウッドデッキを片付けて、本日オープンとした。
 つい一月ほど前まで裸ん坊で、寒風に耐えるべく冬仕様の鎧みたいな木肌を纏っていた庭の木々は、早変わりで生気みなぎる緑のワンピースに衣替えした。隙間ないほどに茂った若い葉をすり抜けてくる風は、五割の夏と、二割の春、そして三割の梅雨の予感が混ざっている。頬に気持ちよい。
 庭木の中でもみじは新築祝いに中学の同級生がプレゼントしてくれたものだ。成木の状態で移植されたので、庭木の中では一番の年長だ。その権威を傘にきているわけではないだろうが、例年領域なく枝葉を伸ばして隣の木々を圧倒する。今年もしかりで、ウッドデッキの居住空間まで枝葉がひゅんひゅんと伸び出している。そろそろトリミングが必要そうだ。そんな思いで根元から先まで目線でスキャンしていると、屋根と柱が交叉するあたりの暗がりの部分に鳥の巣らしきものがあることに気がついた。こっそり覗き込もうと顔を近づけたとたん大きな羽音と共に予想外に大きめの鳥が不意に現れ、たちまちどこかに飛び去った。巣の中には2個の白い卵が確認できた。親鳥はと探すと一番近くの電信柱のてっぺんにキジバト止まっていて、こちらを心配そうにうかがっていた。早々にウッドデッキから引き上げて、こっそりカーテンの隙間から観察していたところ、親鳥が巣に戻って来て再び卵を抱くのが確認できた。
 それにしても、よくぞこんな小さなわが家の庭木を、巣の設営場所として選んでくれたものだ。付近にはちょっとした森みたいな木々を擁した広い敷地の邸宅も散在するというのに。なんともうれしいやら誇らしいやら。
 翌朝からカーテンの隙間から巣を観察するのが私の日課になった。時々親鳥と眼が合ったが、警戒の眼差しは緩めないものの毅然とこちらを見返し、逃げ去る気配はなかった。通常キジバトは抱卵も子育ても雌雄一対が交代で行うという。交代の瞬間一時的に親鳥が不在となるので、その時が巣を観察するチャンスとなるという。ある朝親鳥の姿が見えなかったので、そっと近づいて手を伸ばしてスマホで巣の中をビデオ撮影してみた。すると何と巣の中には2羽の雛が誕生していた。黄色の柔い羽が風に揺れて、まだその身の一部が卵の黄身のままなのではないかと錯覚してしまうほど何とも無防備で脆弱な生き物がかすかに動いていた。にわかに芽生えて膨らむ親心。もっと見守っていたいと後ろ髪を引かれながら出勤した。ようやく仕事を終えて夜遅くに帰宅して、風にそよぐ枝葉越しに巣を守る親鳥のシルエットを確認できた時は胸をなで下ろした。
 キジバトはひな鳥を育てる際、雌雄とも「ピジョンミルク」と呼ばれる文字通りミルクのように真っ白な液体栄養素を、「そのう」という器官で作って、それをえさ代わりに与えるのだそうだ。栄養豊富なピジョンミルクを飲もうと複数の雛が親鳥の口の中にくちばしを突っ込んでむさぼる動画をインターネットの観察記録で観た。卵で産んでミルクで育てたり、夫婦二交代性で子育てをするなど、人間よりはるかに効率的で進化した養育のあり方と思われる。そんな微笑ましくも模範的な子育ての姿もやがて垣間見ることができるだろうと期待して、窓越しにそっとお休みを言った。
 それから間もないある朝事件は突然起きた。巣には親鳥の姿がなかった。交代時間なのだろうか。これはシャッターチャンスとばかりにスマホを携えて巣に近づいた。ところがそこに雛は1羽もいなかった。巣立ちには二週間余りかかるそうだから時期的にはまだ早すぎる。何が起きたのだろう。しかしもう出勤時間だ。車に乗り込む際にちょうど一羽の親鳥が戻ってきて、巣がもぬけのからなのを確認してこちらを振り返った。驚きと不審の視線に思えた。私は眼で、「僕たちの仕業ではないんだ。一体何が起きたのか僕たちにもわからない!あの子たちはどこ?」と訴えかけた。無論親鳥はそれには反応することはなく、あきらめたように飛び去った。私たちは鉛を飲み込んでしまったように重たい気持ちで家を離れた。
 それから数日間、もしやひょっこり親鳥が雛をくわえて巣に戻ってくるのではないかと未練がましく巣の観察をしていたが、住人の居ない空き家は風雨にそぎ取られてぱらぱらと崩れて巣の原型をなくしていった。そしてわが家のもみじは何だか一頃の勢いはなく、やけにこじんまりと葉を纏っている。あの時は巣を隠すためにもみじも懸命だったのかもしれないなどと感傷的な思い込みをしてしまう。折りしも電柱の上で雄のキジバトが鳴き出した。あの時の親鳥の一羽かもしれない。そののんびりしたマイナー調のリピートは曇り空の昼下がりにマッチしていた。梅雨の到来を予感する天然の鳩時計のようでもあった。それを聞きながら、自然の摂理を受け止める寛容さと冷静さは動物の方が一枚上手のようだと感じた。(20018年5月)
 

2018-07-05 21:06:56

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小倉のみぞれアイス

小豆のみぞれアイス
  生家で使っていた古い洋服ダンスタンスを整理していたら、菓子の空き箱から父の古い写真が出てきた。手札サイズのモノクロで、黄色いシミが数カ所に付いている。スキーを担いだ男性5人が雪景色をバックに楽しそうに笑っている。向かって一番右端が父だ。昔の人は一回り老けて見えることを差し引くと、おそらく30歳代。父は晩婚だったのでひょっとすると独身の頃の父なのかもしれない。スキーをこよなく愛した父は、よく飯綱鉱泉(現在の飯綱高原スキー場脇)までスキーを担いで徒歩で登り、昼を食べて一風呂浴びてから帰りの長い下りを一気に滑降してきたそうだ。その爽快さたるや無比のものだったと、夢見るような表情でよく話してくれた。家の中では無口で無表情なほうだったので、父がそうした一面をのぞかせるのはごく限られた時だった。この話も、たいていは幼い私をスキーに連れて行ってくれるバスや電車の中、二人だけの時に話してくれたものだった。
 私が幼かった頃、喘息持ちだった母は度々重い発作を起こしていた。姉は私より6歳も上だったので、既に男親と行動を共にする機会は少なくなっていた。だから休みになると父はよく私だけいろいろなところへ連れて行ってくれた。それにしても今考えると親子連れで遊びに行くには結構レアな場所が多かった。しかも父は自動車免許を持っていなかったので、お出かけはいつも公共交通機関を使った。例えば安曇野の明科にある長野県水産試験場。当時そこではニジマスの養殖池を一般入場者のために釣り堀として解放していた。そこに行くには、篠ノ井線の各駅列車で片道一時間はゆうにかかっただろう。蒸気機関車の煙が猛烈に煙くて長い冠着トンネル(かむりきトンネル:姥捨駅-冠着駅間にある全長2,656 mの鉄道トンネル)と、姥捨駅で繰り広げられるのんびりしたスイッチバック(急勾配を登坂するためにとられた運転形式)のショーと、ちょっとしたday tripだ。父はたいてい長野駅で冷凍みかんと駅弁を買って、姥捨のスイッチバックのタイミングで二人で食べた。試験場のニジマスは少しもすれていないのでおもしろいように釣れたから、実質釣りを楽しむ時間は30分がいいところで、今考えるとこの旅の醍醐味は往復の汽車の旅だったのだろう。
 別のある夏の日、父は「今日は化石を採りに行こう」と言い出すや母におにぎりを握らせ、二人で戸隠行きのバスに乗り込んだ。つづら折りの県道戸隠線をボンネットバスは器用に上ったが、私はすっかりバス酔いしてしまった。限界が近づいた頃ようやく柵(しがらみ)郵便局前の人気のないス停で降りた。獣道のような道だったが、父は勝手を知ったように草をかき分け裾花川の川縁まで降りて行った。そこにはやや傾斜した明瞭な縞模様の崖が切り立っていて、星のように無数のホタテ貝の化石がそこここに混じっていた。現在の戸隠栃原にあたり、資料によると、戸隠連峰自体が地質学的には約500万〜400万年前(新第三紀新世)の海成層から構成されていて、かつて海だったフォッサ・マグナ地域に堆積した層がその後激しく隆起してできた地域だと言う。ホタテ貝類の化石が算出することで江戸時代から知られていたらしい。化石とは言えど石、なんとも重いので数個を採取して持ち帰るのがやっとだったが、以来それらが私の宝物となったことは言うまでもない。やがて数十年の年月を経て、すっかり老いた両親を私の官舎の近くのアパートに転居させ、生家を引き払う際に化石は廃棄してしまった。今考えるともったいないことをしたものだ。それにしても何故父がその場所を知っていたのかは今も不明である。中学校で教鞭をふるった時期もあった関係で知り得たのかもしれない。 
 そう言えば私は驚くほど父の若い頃の話を知らない。太平洋戦争に徴兵されて戦地は東南アジアだったようだが、戦争のことはほとんど話すことはなかった。現地のバナナが美味しかったことくらいだろうか。捕虜になって、終戦から1年ほど経て南紀白浜に海路でたどり着いたようだが、これも聞き出した義兄から伝え聞いたことで、父の口から私が聞いたことはなかった。兄弟姉弟は6人いたようだが、結核や疫痢などの感染症で4人が亡くなり、最終的に残ったのが長男の父と四女の叔母だった。叔母は生涯独身だったため最後は私が看取ったが、父の話と言えば「長男で威張っていたのよ」とか、「甘いものが好きで、元善町の長門屋(善光寺門前で甘味や軽食で古くから有名だった茶店)で買った大福餅を一度に10個も食べてしまったのには驚いたわ」とか、「兄ちゃんがなかなか大学に合格しなかったので私は優等生だったのに銀行に入行する道を選ぶしかなかったのよ」などと、あまりよいことは言わなかった。法事の席では酔った親戚の者が、「君の父上は極楽とんぼのように自由な人だったな」などと、褒め言葉とはとりにくい微妙な回想をしたりして、応対に困った記憶がある。若き日の父はあまり愛されない変人だったのだろうか?
 晩年父は認知症になった。だが、閉口するような手に負えない周辺症状はほとんど見せなかった。とても可愛いお年寄りだった。私の妻も、実父に対して以上に親身で好意的によく看てくれた。病院に入院すれば不思議に若い看護師さんに人気があり、とても愛情を注いでもらった。某病院に入院した際も、トイレに行って部屋に戻れない父のために、大きなサンタクロースのぬいぐるみを看護師さんがわざわざ買ってきてくれて病室の入り口に目印として取り付けてくれた。“一(はじめ)さん人形”と彼女たちは呼んでいた。そうか、父のシンボルマークは彼女たちにとってサンタさんなんだと、内心とてもうれしかった。
 父がいよいよ認知症の末期で、経口摂取が困難になる時が訪れた。入院中の病院に私と妻は呼び出され、胃瘻の同意書にサインをした。あの食いしん坊だった父が口に食べ物を含めなくなることが辛くて、父を無理矢理ベッドから車いすに乗せて病院の見晴らしのよい場所に散歩に連れ出した。意識がもうろうとしてうとうと閉眼しがちな父に、売店で買った小豆のみぞれアイスをさじでほんの少し口に含ませた。「おやじさんの好きな小豆だよ。大福餅と同じ小豆だよ」と。アイスは口の中で溶けたが、目を閉じたままの父は嚥下したふうには見えなかった。そしてこれは父が生前最後に舌で感じた味覚となった。それから約一年父は胃瘻から栄養を補給されて、眠ったまま静かに世を去った。息を引き取ったという電話は折りしも私が患者さんに翌日の手術の説明をしている真っ最中だった。だからすぐには駆けつけることはできなかった。あいにく妻は実父の調子が悪く新潟の実家に帰っていたので長野にいなかった。だから父は誰にも見送られることなくひとりで逝った。
 結局父は多くの謎と不思議を残して去って行った。人から「極楽とんぼ」などと言われた若い頃、父自らはあまり多くを語らなかった若い頃は、どんなものであれ今は素粒子に戻ってしまった父の脳裏と数枚のモノクロ写真のなかにしか存在しない。少なくとも私の脳裏には、出かけることや旅が好きで幼い私をスキーやレアな場所に遊びに連れて行ってくれたやさしく穏やかな父、食べることと呑むことが何より好きだった父、若い女性の看護師さんたちや介護士さんたちから愛された年老いた頃の父、そして家族の誰にもほとんど手を煩わせることなく静かに世を去った父の、極上の記憶しか残っていない。それでいい。でもこれを文章に残しておく義務がある。だから久しぶりに晴れ上がった小春日和のわが家のウッドデッキでPCに向かってこの文章を書いている。ふとアゲハチョウが私の周りを2周あまり周遊して屋根の上の方へ飛んで行った。深い理由はないが、母が亡くなった後いつも絶妙のタイミングで度ある毎に現れたことから、アゲハチョウは母の化身だと私は思いこんでいる。アゲハチョウが去ってほどなく、心地よい初秋の風が文章を書く私を撫でていった。そう、父はこの微風のような人だったような気がする。(2017年9月 秋晴れの午後)

 

2017-09-10 22:58:08

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元気な家

元気な家
 先代の愛犬は散歩に出たときにしかpeeとpoo(ピーとプー、おしっことうんち)をしなかったので、晩年からだが不自由になって介護が必要になってからは、雨の日も風の日も雪の日も、日夜6時間毎に抱っこして外に連れ出さなくてはならず苦労した。特に妻が苦労した。だから今の子には幼犬の時から徹底的に屋内の犬用トイレで用を足すようしつけて、実際のところとてもうまくいっていた。しかし、14歳の老犬になったある日、彼は軸足が関節症で痛かったのか、いつもと反対の足を上げてpeeをしたものだからトイレとは反対のあらぬ方向の床に飛散してしまった。その時についつい叱りつけてしまったのがいけなかったのか、以来彼は反旗を翻したように屋内では一切用足ししなくなった。 
 だからここ1年程、前の愛犬の時と同様、雨の日も風の日も雪の日も、朝に昼に晩にと愛犬のpeeとpooのための散歩に出る羽目になってしまった。夜の散歩はたいてい22時から0時位が通例で、コースは2つある。1つは仕事を終えて帰宅する際に鎮守神の広田神社にお参りしつつクリニックの周囲を一周するコース。2つ目は自宅近所のコースで、150mほど離れたJ銀行のあたりまで行って帰ってくるコースだ。クリニック周囲は人家がまばらな田畑なので、夜空がきれいで満天の星を見上げながら季節感あふれる気持ちよい散歩ができる。自宅近所のコースは密集した家が建ち並ぶ住宅地の中である。さぞかし温かで賑やかな光景と思いきや、すでに寝静まって灯りが消えている家屋が多く、家の形の黒いシルエットだけが闇に沈んでいる。住人が高齢になって居なくなった空き家もちらほらと混じる。それらはまるでスイッチを切られた仕掛けおもちゃのように冷ややかで静かだ。特に月のない曇り空や木枯らしが吹いている冬の夜に疲労困憊した人間二人と老犬一匹がとぼとぼと歩いているとゴーストタウンにいるかのようで、世間の営みや時間から置き去りにされているような寒々とした寂寞感に侵される。
 しかしそんな沈殿した夜景の中で燦然(さんぜん)と輝く一軒の家がある。折り返し点のJ銀行から畑越しに臨める住宅群の一番奥にある民家で、こちらから見える二平面だけで大小合わせて11個もの窓があり、それらの全部の窓が煌々と灯りが点っている。窓の多さもさることながら、夜も更けてなおほとんど全ての窓に灯りが点っている家は類を見ない。何人家族なんだろうか? 二世帯住宅だろうか? いや、高齢の方はこの時間は起きていないだろう。勉強好きの子がたくさんいるのだろうか? などと想いを巡らせて見ているうちにこちらの気持ちが何やら楽しく明るい方へとシフトしてくる。最初は不思議に思って興味本位で見ていたが、しだいにこの家の灯りを見るとエネルギーをもらえるような気がして、夜の散歩の楽しみになった。
 灯りに満ちたこの家を見ていると何故か愛着とノスタルジアを覚えてしまうのは、自分の幼かった頃の近所の光景を思い出すからだろう。当時は子だくさんの家が多かったし、三世代四世代が同居するのは珍しくなかった。また、エコロジーの概念も乏しかったので、夜ともなればどの家もどの窓も明るかった。戦後生まれ変わった日本が、まだ成長期だった時代である。木々で言えばまだ若葉の頃である。しかし三千年紀(西暦2000年〜)に入って、日本は成熟した代わりに若々しさや無鉄砲なほどの力強さや熱さは影をひそめた。個人の生き方の自由度の高さとプライバシーが尊重されるようになり、その反面で人はみなある意味わがままで冷ややかになった。そうした流れの中で核家族化と少子化が進み、多世代同居の賑やかな家は希少なものとなった。世代を継承しない家はその住人が老化すれば共に老化し、街も合わせて加齢が進行する。街の年齢は夜の灯りの充実度に比例するように思われることから、私の住むこの一画は人の生涯で言えばさしずめ五十歳は越えた頃だろうか。
 今夜も23時を回った。深夜にもよおすといけないので、かわいそうだが熟睡している愛犬を起こしてpeeとpooに連れ出す。さて、今夜もあの元気な家の灯りを見れるだろうか。
(2017年5月)
※イラスト:クリスチャン・ラッセン作 Lahaina Starlight Ⅱ
               制作:くらしまクリニック
 

2017-05-09 00:00:50

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屋根

 屋根
 少し前、とにかく覚醒している間中私の頭の中で「屋根」という曲がエンドレスでリピート再生されていた時期があった。仕事や日常の中でわずかでも思考に隙間が生ずると、それを埋めるかのように曲が再生され始める。私の場合、たいていこうした現象は心身がとことん疲れたときにおこる。それにしても何故この曲なのだろう。大学に入学したばかりの頃とても気に入ってよく聴いていた楽曲のひとつだ。確かラジオのエアチェックで自作したミュージックテープの中の一曲だった。
 エアチェックとはラジオやテレビの放送番組を録音録画して楽しむことだが、私が学生だった頃一般人が楽曲を入手できる手段は、レコードを購入するかエアチェックをするかのどちらかだった。したがってラジカセは必須アイテムで、たいていの若者は音楽番組のエアチェックで楽曲を入手していた。番組のパーソナリティーが曲紹介するのを聞いて、よさそうだと思ったら知らない曲でもいちかばちかで録音ボタンを押す。気に入ればそのままキープするし、気に入らなければ巻き戻して次の曲を録音する。そんな面倒な作業をたいていの若者は受験勉強や学校の試験勉強をしながらやっていた。不器用な私はたいていの場合録音操作に追われて、曲名やアーティストを書き留める間がなかった。だから気に入っている曲ばかり満載だが、題名もアーティスト名も不明なミュージックテープができあがるのが常だった。「屋根」という曲もそうした自作テープの中の一曲だ。数年前に不意にこの曲のことが思い出され、諳(そら)んじていた歌詞をキーワードにインターネットで検索したところ、曲名とシンガーが判明したものだった。
 歌っているのは高田真樹子という新潟出身の女性シンガーで、声質は涼しい透明に近いソプラノ。でもわずかに、そう3%位ハスキーな艶っぽさを混じる歌声だ。 
 
 つらいことだらけで泣きたくなってしまった時、
 あなたの家がはっきり見える屋根の上が恋しくなるの
 教会の十字架やとおくを走る汽車の明かりまで見える大きな屋根の上が
 真っ暗なあなたの家に灯りがともると なぜか私は涙が、涙が出てしまうの
 あなたの家の明かりは私をあたたかく見つめていてくれている そんな気がするから
 できるならあなたと二人だけでとおくを走る汽車の明かりを追いながら
 屋根にのぼりたいけれど
 今の私をなぐさめてくれるのは あなたの家の明かりだけでいいの
 真っ暗な闇の中で星に囲まれながら屋根の上であなたを想っていることだけで
 どんなにつらいことでも忘れることができてしまうの 今の私には
 
 この曲をエアチェックしたのはおそらく私が大学受験に失敗して予備校に通っていた頃で、東京東中野のアパートで親元を離れて初めての一人暮らしをしながら受験勉強していた頃だ。今と違ってSNSどころか専用の電話もなかったので、夜はけっこう寂しく、FMラジオから流れる音楽が大きな癒やしであった。現代のように自分の中で芽生えたりわき起こる想いや感情をすぐにラインやメッセージで伝達したり、ましては拡散することはない。いやできない。必然この不便さはそうした想いや感情をしっかり受け止め、十分反芻する時間を生んだ。今は辛く寂しさくやるせないけど、やがて実を結ぶかもしれないと信じて止まない切なる想いはこの時間経過の中で育まれたし、自分を高めることのないつまらぬ感情は昇華して消え去った。そうした若き日の想いと時間は、ミュージックテープとなって残っていった。
 しかしこの曲がさらに心に浸透したのは、後に医大に進んでからのことだった。その頃住んでいたのは、新潟市郊外にある築20年ながら鉄筋コンクリート製のアパートで、ウナギの寝床のようにやけに長いちょっと変わった建物だった。海辺に程近かったので、基本、吹くのは海風か陸風。しかしアパートの長軸は海岸線と垂直方向だったので、風の通り道とたいてい平行だった。だから風は窓をかすめるように通り過ぎて行ってしまい、建物の中はやたら換気が悪いのがそのアパートの最大の難点だった。特に夏場の蒸し暑さは想像を絶していた。
 しかしその欠点を埋めてあまりある長所として私が気に入っていたのは、少し小高い砂丘の中腹に建っていたことと、テニスができそうなくらい広い屋上があったことだ。屋上に上ると新潟平野を一望でき、海風が自由気ままに通り抜けていくのを全身で感ずることができた。だから暑い夏はもちろん、春や秋の心地よい気温の季節にはほぼ毎晩長い時間を私はこの屋上で過ごした。まさに「屋根」に唱われていたように、数え切れない家々や街灯の灯りや、広い平野を横切る列車の光の列を延々と眺めていたものだった。家の灯りはそこに人々の生活があることの証明で、街灯はそこを人々が行き交う空間があることの証である。その頃私には具体的な「あなたの家」の灯りはなかったが、「いつか出会うかもしれない誰かがこの灯りのどれかの元にいるのかもしれない」という未来は感じていた。だから灯りたちを見ていると漠然と誰かに背中を抱かれて、未来の夢を語りかけられているような気がして気持ちが和んだ。屋上ではいつも「屋根」を口ずさみ、部屋に戻ればカセットテープを何回もリピートして聴いていたような気がする。
 今の自分はと言うと、屋上で海風に何時間も吹かれても平気なあの頃のような大容量の熱源は体内にないし、心のセンサー感度もだいぶ鈍くなってしまった気がする。そんな喪失感が募るのに背負うものはたくさん。だから背中が少し寒く感じてしまう。四十年近くの時を経てこの曲が想起されて頭の中でリピートされているのはきっと「屋根」を聞いては灯りたちに癒やされていたあの頃の熱く澄んだ気持ちのリバイバルを心が望んでいるからだろう。
 しかし時代が変わって音楽の再生メディアはめまぐるしく変遷し、私の「あの頃」を凝縮したはずのカセットテープは再生することはできなくなった。第一アナログのメディアは劣化してしまうので、再生不能で結局ほとんど全部廃棄してしまった。今夜も人気のない夜の診察室で、残務に追われながらネットでダウンロードした「屋根」を聴いている。だいぶ記憶の彼方で、蘇った「あの頃」は断片的で象徴的なものばかりだが、今度はせめて劣化しないメディアに注釈付きで未来の自分に当てて残しておかなければいけないと感じた。そして将来、そのメッセージを喜び懐かしむことができる自分でい続けられるよう、自分のメンテナンスも怠らないようにしなくてならないと切に思った。 (2016年初夏)
 

2017-01-04 21:12:42

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時の値段

時の値段
 昨年から、正月は旅館で過ごすことにした。去年は初回だったので、少し遠慮気味に一月二日から宿を取った。だが今年は思い切って元旦から宿をとった。家に居ると年賀状の返事書きに追われたり、挙げ句の果てには普段忙しさにかまけてなおざりにしている家のメンテナンスにまで手を出して、せっかくの休日が雑用に終始してしまうからだ。正月は温泉宿、宿は昨年泊まって印象がよかった諏訪湖畔の同じ旅館と、あまり思案を巡らすことなく決めたのがよかった。
 今年の元旦は雲ひとつない晴天で、湖岸通りをドライブしていると対岸の少し向こうに富士山がくっきりと望めた。車で15分も飛ばせばすぐ麓に着いてしまいそうなくらい近くに感じられた。一富士二鷹三茄子(いちふじにたかさんなすび)は初夢に見ると縁起のよいと言われるが、思いがけず実物の富士山を望めたのはめでたいことだった。
 部屋は十階の角部屋で、十三畳の和室の他に掘り炬燵のある六畳部屋と三畳の次の間までついていた。予約時点ではすでに残室が少なく、「和室十畳に踏込二畳」という条件だったので、予想外の部屋のアップグレードでこれまためでたい気持ちが加速した。
 夕食は正月らしい縁起物のおせちを交えた豪華絢爛なコースで、旅館の意気込み満載な料理に舌鼓を打った。夕食の後は地元の和太鼓のパフォーマンスがあると女中から案内されていたのでぶらぶらとホールへ行ってみると、諏訪神社にちなんだとても質の高い和太鼓、お囃子のパフォーマンスを楽しむことができた。連打する大太鼓の音は、体の芯まで届いて、埃をかぶりかけていた自分の中の原始を共鳴させた。近頃感動することが少なくなったと感じていたのは、実は自分の中の原始が埃で共鳴できなかったのだということが改めてわかって安心した。勇壮な大太鼓から小太鼓と笛によるお囃子に変わり、舞台の袖から赤、青の獅子が観客席に下りてきた。子どもたちの頭をやさしく噛んで邪気を取り除いて回った。その邪気払いに対してご年輩の男性が獅子の口の中におひねりを入れた。それがやけに粋な所作に見えて自分もやってみたくなった。手招きしたら私たちの席にも来てくれて、二人の頭を噛んでくれた。おひねりの千円を口の中に入れてあげると、お礼に「御諏訪太鼓」と書かれた和太鼓のお守りとあめ玉をくれた。感動回路がリセットされたせいで、こんな小さな体験も情感に満ちた価値ある時間だと感じられた。
 部屋に戻ってからは寝るまで炬燵にあたって過ごした。私たち夫婦には旅館に泊まったときの守るべき取り決めがふたつある。それはテレビのスイッチはけっして点けないこと。もう一つはお互い干渉することなく好きなことをやることである。妻は数独をやったり本を読み、私は創作に勤しんだ。BGMは波の音をバックにしたソロギターの楽曲を流した。携帯用のアロマディフューザーを持ってきたので、ラベンダーとレモンとゼラニウムをブレンドした。私なりの演出だ。こうして新年の元旦の夜は更けていった。
 時は不思議なものだ。正月もクリスマスも、月曜日も土曜日も、雨の日も晴れの日も、やはり同じリズムで几帳面に刻まれ、けっして止まることなく過ぎていく。水が高いところから低いところに流れるように必然的に流れていく。川のようだ。この元旦の夜もいつもと同じように時は経過したに違いない。が、もし時間に値段をつけるとすると、ここ数年で最高値(さいたかね)の一日をすごした気がした。そして高値のつく時間ほど、速く過ぎてしまう。時とはそもそも形而上的な世界の尺度なのかもしれない。(2016年 元旦)

2016-02-07 22:20:39

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生け垣

生け垣
 休日の午前、久しぶりにカフェまで遅い朝食を食べに行った。11月だというのに妙に温かくて、家から2Kmほどの距離を歩いているうちにポカポカしてジャケットを脱いだくらいだった。ぶらり散歩にはちょうど心地よい日和だ。
 まずは団地の中の入りくんだ道を通り過ぎる。一戸建てのモダンなデザインの家が多い。車はミニバンやSUVがほとんどで、子ども用の自転車が何台か無造作に置かれている。人生でもっとも量感のある季節を過ごしている住人だということがうかがえる平和な光景だ。
 次にアパートが連立する一画に入った。かつてこのあたりは、一面に林檎や桃、水稲などの作物が実りをもたらしていた場所だ。年を追うごとに切り株が増え、田はもう水が導かれることのない草生地に置換され、肥沃な土壌はかさかさに肌荒れしてしまった。それでも農地の体面を保つために、ほんの一握りの広さで家庭用野菜や花が植えられていた。ところが最近大手情報通信機械器具の工場が関東から移転してきて、1000人規模の人口移入があったせいで、これら疑似農地は一斉に宅地化されて居住区に様変わりした。まるでつくしんぼのようにあれよあれよという間にアパートが建ち始めた。それぞれの駐車場にはアスファルトが一面に敷き詰められて、土の茶色はもうみじんも見えなくなった。
 少し悲しい気持ちになったので、通ったことのない小径に歩を進めると、不思議な風景が展開した。そこは私が少年時代を過ごした昭和三十年代のような町並みの一画だった。当時隣家との境と言えば生け垣が普通で、常緑広葉低木のマサキが定番だった。家々は低い垣根でやさしく境され、簡単に隣の家は見通せたし空はもちろん共有のものだった。まさにそんな家並みが目の前に存在し、個々の広い庭には自家用の野菜が植わった小さな畑と季節の花が咲く花壇、端っこにはお決まりの柿の木が実をたわわに実らせ初冬のアクセントになっていた。ここは昭和だろうかと、思わず立ち止まって見入ってしまった。浅田次郎の「地下鉄に乗って」を彷彿させた。そのうち腹の中心、臍の上あたりに懐炉を抱いたような温みが感じられてきて、のんびりとした安堵感が全身に染み渡っていった。もしここに住人が居て、落ち葉焚きをしながら生け垣越しに世間話などしていたら、泣けてきたかもしれない。
 ノスタルジアに浸りながら数分歩くとようやく見慣れた国道に出た。私たちはカフェに入ってイタリアンローストのコーヒーとラップを注文した。昼前のカフェは意外に空いていた。座る椅子がなく立ち往生する客があふれる店内で、PCや勉強道具を持ち込んで長々と平気で居座る人たちや、店中に響くほど声高に会話するご婦人たちもいない。文庫本を読んだり、低いトーンながらも楽しそうに会話しているカップルが多い。みなそれぞれが固有の空間の中で静かに自分たちの時を過ごしている。それでも、少し大人数のグループが来れば自ら席を移動して融通してあげたり、テーブルの隙間を誰かが通り抜けるときには荷物をのけてあげたり椅子を引いたりして、きちんと周囲にも気を配って他の客との協調を図っている。たまたまそんなメンバーになったのかもしれないが、昼下がりに立ち寄る喧噪のカフェとは少し違った雰囲気だ。散歩の途中で迷い込んだ昭和三十年代の家並みのように、カフェの中にも透明な生け垣ができていたのかもしれない。(2015年11月)

2016-02-07 22:19:22

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牡丹(ぼたん)

 牡丹(ぼたん)

 エルニーニョ現象のせいで今年は長い梅雨だと聞かされていたが、台風一過であっさりと7月19日に梅雨明けした。久しぶりの青空を賛辞するように白い積乱雲が立ち上っている。まるでスタンディングオーベイションのようだ。散発的だったニイニイゼミの声も、今やそこここで鳴き声を競い合い、夏の到来を盛り上げている。私は、何年か前にひどい風邪をひいて中耳炎を患ってからというもの、冬も春も、昼も夜も蝉の声に似た耳鳴が聞こえている。でもやはり正真正銘本物の蝉の鳴き声は、森の匂いや降り注ぐ夏の日射しを連想させて心地よいものだ。
 7月25日は母の祥月命日だった。あいにく私は缶詰状態のセミナーに出席のため、仏壇の前ではなく、品川のホテルの一室にいる。母が亡くなった日のことは今でも克明に覚えている。臨終の後看護師に赤い紅をさしてもらって、少し若作りの死化粧を施された母と二人、小一時間ほど霊安室で葬儀社の車を待った。音ひとつ聞こえぬ静かな部屋だった。久しぶりにまじまじと母の顔を見た気がした。辛くて長い闘病生活から解放された母は、なんだか息はしていないがすがすがしくさえ見えた。長いこと見つめているとふいにまだうら若き娘の頃の顔に変貌していくような錯覚に陥った。そう言えば母は晩年年齢を訊ねると、失見当識のせいでたいてい19歳だと答えた。彼女が主張したその年齢に帰って行っているのかもしれないと、そんな気がした。同時に急に不安が頭をもたげた。母は私たちの母であった人生を本当に幸せだったと思っていたのだろうかと。
 その答えのヒントは意外なところにあった。昨年叔母の法事があった。叔母は母の長兄の妻で、生前母も「姉さん、姉さん」と呼んでは慕っていた。お斎の席で私があるご高齢の紳士にお酌をしたところ、彼は私の素性を尋ねた。母の名前を告げて自分がその長男だと説明すると、彼は盃に口をつけたままどこか遠くを見るような目をしてひとつ頷いた。それから自分が叔母の12歳離れた弟であると自己紹介して、ひとしきり昔話をしてくれた。その話によると、戦時中、叔母の嫁ぎ先、つまり母の生家があった長野市の大豆島(まめじま)は飛行場があったせいで空襲がひどく、母を含めた女子供は叔母の生家に身を寄せていた時期があると言う。叔母の生家は須坂市の福島(ふくじま)にあった。そこまで母は脳梗塞で寝たきりの実母をリヤカーに乗せて運んで来たそうだ。彼はその颯爽とした姿が印象に残っていると言っていた。母が20歳前後で、彼は12〜13歳だった計算になる。懐古談の締めくくりに、彼は再び遠くを見るような目をして、「あなたのお母さんはまるでダリアのような、そう、大輪の花のような人でしたよ」と言った。
 それを聞いていた対面の初老の男性が合いの手を入れた。彼は母の生家の本家筋に当たるらしいが、世代交代して自分はそのせがれだと名乗った。偶然にも彼は私の父が三陽中学で教鞭をとっていた時の教え子でもあったという。そこへちょうどお酌に回ってきた別の紳士も、自分も教え子の一人だと言った。父は戦後臨時教員で中学生に数学と美術を教えていたらしい。教え子二人の証言では、父は写生と称して生徒をよく大豆島に連れて行ったという。大豆島に住む生徒が多かったので、写生会に必要な水やトイレを借りるのに利便性があったせいかもしれないが、もっとだいじな目的があったと彼らは断言した。「先生の姿が見えないと思うと、何故かきよ江さん(母の名前)の家の縁側でちゃっかりお茶を出してもらって、二人で楽しそうに話していた」という。「まるでデートのようだった」と彼らは懐古した。
 両親という存在は、性別を訊ねられれば男性だ、女性だと答えるが、子の多くはその二人をロマンティシズムとは無縁の、ニュートラルな立ち位置にいるものとしてとらえてしまいがちである。しかし、「大輪の花、ダリア」に例えて若き日の母をある意味憧憬を抱いて見ていてくれた思春期の少年がいたことや、授業を口実に教え子たちを巻き込んでまで密会を断行した若き日の父の情熱を知って、両親の青春、そして恋、私たち一家が線でつながった。私の脳裏で想像していた両親の人生のドラマが、急にセピア色からカラーに変わった気がした。
 法事が終わる時、先ほどの老紳士が帰り際にわざわざ私のところまで近づいて来られてこう言われた。「今日は良い出会いでした。あっ、そうそう。私は先ほどあなたのお母さんをダリアのようなひとと言いましたがあれは誤りでした。そう、『牡丹』です。牡丹のように華やかな人でしたよ。ではまた、ごきげんよう。」正直ダリアと牡丹の花の違いがよくわからなかったが、戦時中少年だったその老紳士の想いが微熱とともに伝わった。そして母をもっと賛辞された気がしてうれしかった。
 僧侶による読経や供物など、何も催さなかった母の祥月命日だったが、こうして母と、母を愛した父を懐古してこの文章を書き、明日東京の菓子を土産に仏壇に供えることで、母も許しくれるのではないかと自分勝手に納得して7月25日はあと数分で終わろうとしている。
(2015年7月25日 品川プリンスホテルの一室にて)
(追補: Google検索にてわかり得た知識。「牡丹」:原産地は中国で、絹のように薄く大きな花びらが幾重にも重なり、まり状にまとまった花姿。花言葉は、「風格」「富貴」「恥じらい」「人見知り」、西洋でのLanguage of flowers(英語版花言葉)は「bashfulness(恥じらい、はにかみ)」「compassion(思いやり)」。ボタンとシャクヤク:ともにボタン科ボタン属で花はよく似ている。ボタンが樹木であるのに対して、シャクヤクは草本でやや小ぶり。女性の美しさを形容する言葉として「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」があるが、これは、シャクヤクが長い茎の先端に花をつけるのに対して、ボタンは葉の上に座っているかのように咲くことにちなんでいるとのこと。)

2015-08-01 14:15:15

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