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院長エッセイ

長野市稲里町田牧 の 脳神経外科・神経内科 脳とからだの くらしまクリニック

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ブルーモーメント

ブルーモーメント
不意に夜明け前の5時に眼が覚めてしまった。夜型人間の私においてはとても珍しいことだ。薄明(トワイライト)がゆっくりと朝の明るさへと窓越しに進んでいく。闇から夜明けへ、暗から明へ、音楽で言えばクレシェンドだ。日没後の薄暮と薄明とでは光度は同じなのかもしれないが、心理的には薄明の方が高揚感が勝ることがこれまでは多かった。しかし今日の場合は違った。疲れていたはずなのに意味もなく覚醒してしまったことへの不満が上乗せされたせいもあるが、昨日見た夕暮れがあまりに美しくて印象的だったから、今日の夜明けは一歩負けた感がある。
「ブルーモーメント(blue moment)」という事象があることを気象の本で読んだことがあった。天気の良い日没直後に、あたりの景色が極めて美しい青に染まる限られた時間(数分から十数分間)あると言う。幼い頃美しい夕焼けはさんざん見たが、そんなに美しい「青の時間」とはいったいどんなものなのかこの歳になってもいまひとつ想像が出来ずにいた。昨日妻の実家がある新潟県に墓参に出かけた帰りの高速道路でそれに遭遇した。海岸沿いを走っていた際に美しい夕日を横目で見ながら、ゆっくり停車して眺めようとしたがパーキングエリアにたどり着く間もなく日没は完成してしまった。少しがっかりしながら運転を続けていると、見たこともない深淵でかつ透明感のある青の景色が海の方向に展開した。ユーミンは夏の空を「空色」、秋の空を「水色」と唱ったが、そのどちらとも異なる宇宙観が漂う青で、それこそガガーリンが宇宙空間から眺めて「地球は青かった」と表した青に近いのではないかと想像する。運転中だったので助手席の妻に何枚も写真を撮ってもらったが、あの青の深度と透明感は反映できなかった。妻も助手席に座っていたので、実際の青の世界を、窓の形に切り取られた一部分しか見えなかったことだろう。
そう言えば私たち夫婦はそろって空を見るのが好きである。国際宇宙ステーション(ISS)の軌道をインターネットで検索しては頭上を通過する時間に合わせて外に出てそれを眺めたり、何度か訪れたハワイ島マウナケア山から眺めた満天の星を思い出しながらYou Tubeですばる望遠鏡にある定点カメラの星空映像を観たりしている。だからすっかりドラマやバラエティーのテレビ番組を観なくなった。毎日の診療で多くの方々の疾患を診察するに当たり、背後に見え隠れするその方の人生をくみ取ったり配慮しなくてはならない。だから人生ドラマは生でたくさん遭遇することになる。また、さまざまな診療情報を得たり記録に残すのは全てコンピューターである。一日少なくとも8時間はそうした人との関わりをこなし、12〜13時間はコンピューターに向かっているので、大脳の前頭前野がフル稼働状態になってしまう。ヒトの脳には、デフォルトモードネットワークと言ってコンピューターで言うとsleepの時間が必須と言われている。この時間帯にヒトは記憶を整理したり将来のシミュレーションをすると言われている。だから私たち夫婦にとってのデフォルトモードネットワークがすなわち空を眺めている時間なのだと思われる。それにしても昨日の「ブルーモーメント(blue moment)」を停車してじっくり見れなかったのは悔やまれる。 
けっきょく昨日は二箇所の墓参をした。一箇所は山の中腹の林の中で、晩夏の蝉が懸命に鳴いていた。人影もほとんどなく、苔むした墓石に花を手向けて語りかけた。もう一箇所は海辺の寺で、木漏れ日が眩しく暑かったが、木立が漂わせるフィトンチッドとマイナスイオンでむしろ心地よさを覚えた。生きていくと言うことは様々な喪失に遭遇してそれから癒えていく繰り返しであるが、重ねていくと墓参の意味も理解できてくる。若い頃墓参りは正直なところ義務感で行う行事と捉えていた。しかし今は異なってきていることに自分ながら驚く。歳をとったと言うことだろうか。もし故人の魂が次元を超越して存在するのなら、きっと昨日垣間見たブルーモーメントは、その魂たちの返事だったのかも知れない。(2023年8月下旬)
 

2023-08-21 12:17:27

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諏訪とわたし

諏訪とわたし
 諏訪湖の対岸の西の山に太陽がうすづき(春き)、少し毛羽立ったような厳冬の暗い水面に一筋の輝く光の廊下ができた。ダージリンを飲みながら足を投げ出して、なじみの宿の窓からぼんやりと眺める。やがて陽は隠れ、それでも余韻を残すようにあたりはしばらく闇から逃れていた。窓越しに体が急に冷えてきた気がして温泉に入ることにした。いつもはシャワーで済ましてあまり湯船に漬かる習慣がない私にしては、ずいぶんの長湯をした。暮れなずむ諏訪湖の景色を見ながら日常の疲労と緊張を溶かすように湯船に身を預けた。上気して風呂から上がった頃には、湖は空のランプブラック*と区別がつかなくなり、この二つを分けるように対岸の街並みの灯りが瞬いた。普段では考えられないようなゆったりした時間が訪れては去って行く。[*:ランプについた煤のような黒]
 何年か前から正月はこの定宿で過ごすことにしている。普段読む間がない趣味の本を読んだり、温泉に漬かったり、ぼんやりしたり微睡んだりするが、テレビは一切観ないし、観光もしないというポリシーは守り続けている。家にいると年賀状の心配やら、初詣の算段やらで、結局休んだ気がしないまま、夜はおめでたいテレビ番組に時間は費やされ、貴重な休暇がベルトコンベアの上に載った品物のように流れ去ってしまう。だから少々贅沢でも正月は温泉宿で過ごすとに決めた。この時期の諏訪湖は特別目立ったアトラクションもないし、都会人が好むような洗練された遊興施設もない。白鳥の形をした平凡な遊覧船と足こぎボートが寂しそうに繋留されている程度である。とりわけ惹きつけられる祭事もなければ見所もない。だから寒々とした湖面を眺めながら、自分たちだけの珠玉の時間を手繰ることができる。
 諏訪は私が大学時代に車の免許を取ってから両親と姉を連れて訪れたのが最初で、諏訪大社でお参りをしたり、名物の塩羊羹や大社せんべいを買って帰るデイトリップを何回かした記憶がある。長野県は南北に長く、文化圏が北部、中部、南部で異なっているので、県内を旅行するだけでも新鮮な旅行気分を味わえる。諏訪市はちょうどよい距離にあったこともあるが、私の実家の所在地が長野市の新諏訪町と言う町名であったので、なじみやすかったのかもしれない。新諏訪町の鎮守は諏訪神社と言い、後から知ったことだが御祭神は諏訪大社と同じ建御名方命(たけみなかたのみこと)であった。思えば初めて大学進学で新潟市を訪れた際に、新潟に着いたら頼っていくようにと知人から紹介された方も、訪ねてみると医学部のある旭町通に鎮座する「(寄居」諏訪神社」の宮司さんであった。その神社の御祭神も言わずもがな建御名方命であった。大学時代に知り合って結婚に至った妻の母の生家は、新潟県柏崎市の諏訪町という地名にあった。ただこの町名の由来はよくわからない。そして月日は流れ、土地選びに数年の歳月と苦労を要した現在のクリニックの開業地は廣田神社のお膝元で、この神社の御祭神も建御名方命であった。博学な患者さんが、長野県内の神社の祭神は武田信玄の命で建御名方命を主神に変更させられたケースが圧倒的に多いのだと教えてくださったが、武田信玄とは敵対していた上杉謙信のお膝元新潟でも自分と「諏訪」との結びつきがあったことを思うと、もう自分は諏訪大社や建御名方命を崇めるのは必然の気がしてきた。そんなわけで正月の束の間の安息を、「素(す)」で過ごす場所として諏訪を選んだ経緯がある。
 宿をチェックアウトしてから諏訪大社上社に詣でた。COVID-19 がパンデミックになって3回目の正月で人々も分散参拝に慣れたのか、思ったほどの人手ではなかったが、過去2年に比べたら大分賑やかにはなってきていた。私たちは参拝を済ますと毎年定位置に陣取るだるま屋の露天商で2つのだるまを購入した。値切り交渉はあまり得意な方ではないが、「もう少し安くならない?」と言ってみたら500円まけてくれた。あっさりその言い値でオーケーしたら、がたいのいいお兄さんは「ありがとう、2つも買ってくれたから・・・」と礼を言って、干支の根付けを記念にくれた。彼の雰囲気からはとても想像つかないような可愛らしいウサギの根付けであった。ウサギと言えば建御名方命の御尊父さまが「因幡の白ウサギ」の有名な逸話を残している大国主命である。ひょっとするとあのがたいのいいだるま売りのお兄さんは建御名方命の遠い遠い末裔なのかもしれない。大社せんべいと塩羊羹を土産に購入して、私たちは家路にについた。こうして今年も、縁のある諏訪の地、建御名方命のお膝元で、束の間の尊いやすらぎの時間を授かり、今年1年のための初回充電を完了させた。年々充電がすぐ切れてしまうようになって来て、魂のバッテリー性能が低下しているのかもしれない。しかし魂はすなわち神経活動。神経は生まれてこの方同一の細胞が生涯を共にして、余裕で120年間の寿命を持つと脳化学では言われている。つまり性能が落ちているのではなく、性能を保つメンテナンスの術が悪いのかもしれない。確かに魂を磨くことを、いや、磨く術を忘れかけているような気がする。(2023年正月)
 

2023-02-05 18:34:58

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緑への思いと冬の花火

緑への思いと冬の花火
 1年の中で5月が最も好きな理由の一番は視覚的な理由で、屋外に出たなりに私を包む景色の大半を占める色、それが緑色(Green)で、それこそ自分が最も愛する色だからである。しかし、緑にも様々あって、季節毎に少しずつ変遷していくのは実に風情がある。生まれてからこのかた数十年も緑の色とひとくくりにして、その微妙なバリエーションを漫然と感受してきたが、スマホで色を判別できるアプリを見つけてからというもの、景色を撮りまくっては色の判別に興じている。
今年の5月1日は日曜日だったので、春の山里に愛車を駆って出かけた記録がPCの写真アルバムに残っている。小鍋の善光寺温泉跡を右手に見て葛山落合神社や御射山神社を経由して県道戸隠線に合流するルートが私のお気に入りのドライブコースで、そこからりんご畑越しに佇むひとかたまりの山村と、遠くに抱(いだ)くように連なる山々が私の最愛の心象風景に近いものだと思っている。自分の心が疲れ切っている時にいつも訪れる場所で、礫岩(れきがん)のように固化しかけた魂がホイップクリームのレベルまで甘く溶けてリラックスする。その日の山肌の景色はまるでパッチワークのようで、常緑樹の“ボトルグリーン”(ごく暗い緑)をバックに、各所で背伸びするように若葉の“萌黄色”(もえぎ:明るい黄緑)、“シーグリーン”(つよい黄緑)、さらには“抹茶色”(やわらかい黄緑)がそれぞれ自己主張していた。植林された常緑樹の山林はモノトーンで色の統一性があるので、整然と清涼で心を浄化するようなある種きりりとした風圧を送ってくる。しかし今日の景色のように広葉樹の若葉たちがそれぞれの種や個体を伸びやかに主張して、それぞれの異なる緑で自己表現するパッチワークは、気持ちを前向きにしてくれるし、見ているだけで心がウキウキ引き込まれる陰圧を感ずる。
5月後半の緑たちも実に潤しい。若葉は成長し葉の密度が増して、“アイビーグリーン”(暗い黄緑)、“リーフグリーン”(強い黄緑)、“オリーブグリーン”(暗い灰みの黄緑)が主流となる。そしてこの頃の空は、晴れていると”つゆくさ色“(あざやかな青)であることが多く、緑との相性は私の中では随一だと思う。この時期の昼下がりに大座法師池を散策すると、手前に鏡のような湖水、対岸にアイビーグリーンの林、その上に銀白の積雲が連なり、中でも勢いがいいのは入道雲のなりかけている。そこからつゆくさ色の青空を挟んで絵筆でピンとはじいたような上層雲の巻雲がアクセントとなる。その日の雲の物語のあとがきを表しているように見えるフォトもアルバムに記録されている。こうした景色を前に、私は大きく長い息を吐いて、その倍の量のフィトンチッド(リフレッシュ効果などの森林浴効果をもたらす森林のかおり)を含んだ空気を胸いっぱいに吸い込んだと思う。
 こうして5月の緑を思い、文章をしたためている今、外では雨の中えびす講の花火が上がっている。そう、今日は勤労感謝の休日で3年ぶりの花火大会だ。先ほど傘をさしてさわりの部分を短時間だけ鑑賞してきた。巧みを懲らした見事な花火だったが、空は涙をポタポタ落として泣いている。軽症化してきたとは言えCOVID-19 が第8波に突入して、マスコミは花火の中継と並行して患者罹患数が増えた増えたと不安を拡散している。世界では、わがままなろくでなしの独裁者たちが、勝手放題、悲劇的なカタストロフィーに人々を巻き込もうとしている。こんな世界情勢や心理背景で雨が降りしきる中の花火を観るのは重すぎる。かつては隣人を誘いおでんを炊きながら花火を楽しんだわが家の前の道路は冷たく黒く濡れていて誰も居ない。だから私はiPodのノイズキャンセリングを作働させて、J.S.バッハの無伴奏チェロを聞きながらこれを書いている。5月の緑と無伴奏は温ったかご飯とビスケット位に合わないけれど、自分の中の心模様、そうちょっとしたカオスを表しているようだ。
 と、妻が花火の終焉を一緒に見ようと誘った。渋々ダウンジャケットを羽織りニットの帽子を被って外に出てみた。雨はいつしか上がり、夜空一面をビタミンカラーの花火が覆い尽くしていた。従来の祭り心を煽るようなたたみかけのスターマインはなく、一つ一つ噛みしめるように丁寧なアートを空に打ち上げ、その間隔が次第に狭まったと思ったら、ふいに低い位置に横長の花壇に咲く背のそろったガーベラのような花火が一斉に花開き、一呼吸置いてその上空をノスタルジックなモノトーンの数え切れない程たくさんの大輪が埋め尽くした。花火師たちの「精一杯頑張ろう」と言う、込められたメッセージを強く感じた。久しぶりに見た空いっぱいの元気だった。自虐的に無伴奏を聞いていた私のねじれた気持ちは払い腰で見事に払われて、前向きな意欲が頭をもたげた。さあ、来年の5月の緑がより気持ちよく味わえるようにと心に念じながらこの文章を終わろう。
(2022年11月23日 えびす講花火の夜)
 

2022-11-24 22:27:22

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真夏の憂鬱と入道雲

真夏の憂鬱と入道雲
 真夏の一日の診療が終わった。身も心も疲れて「元気」から遠ざかった人たちがたくさん受診された。合間にCOVID-19 のワクチン接種もした。一筋の日射しも入らぬビルの谷間をひたすら歩いているような、そんな閉ざされた思いを世界中のみんなが感じている。それでも暑くじりじりと焦がすような日射しは何食わぬ顔で地上に放射し続け、夏は普通に過ぎていく。30℃を超えた昼間が終焉に近づき、夕方が来た。一息つこうと窓に近づき恐る恐る開けてみると、案の定熱風が吹き込んできた。6時半とは言え、夏の日は長い。あたりはまだ昼下がりの延長線上。クリニックの正面玄関から出てみると、コンクリートのアプローチ、駐車場のアスファルトが昼間蓄えた太陽熱をムンムンと放熱している。一日中空調の中にどっぷり浸かって身体表面だけ冷え切っていたので、その異様なほどに高温の放射熱が不思議にも一瞬だけ心地よく感じた。しかしそれも束の間、1分もすると玉の汗が吹き出てきた。少年だった頃は空調などなかったので、やはり夏は半端なく暑かった。だが当時の暑さはどこか透明感があったように思う。汗もさらさらで乾いたあとに清涼感が残る汗だった。最近の暑さは、大型トラックやバスのエンジンフードの脇に立った時に味わうような、濁っていて、押しつけられるような圧迫感を伴う暑さのように感ずる。
山並みに眼をやると、はるか上空に沸き立つように背伸びする見事な入道雲がいくつも成長していた。日中の日射しの強さの成果を主張しているようだ。東側の入道雲は強い上昇から既に一転崩れて下降へと変わり、やけに冷たく強めのダウンバーストを吹き付けてきた。窓越しに木々が揺さぶられ、窓ガラスの小刻みな振動が風の強さを伝えてくれる。夕立が来る気配だ。遠くで雷鳴も聞こえ始めた。そう言えば母は雷が大の苦手で、大人げもなく怖がったものだ。だから姉や私が幼かった頃、「雷様さまに臍を取られる」と言うお決まりの迷信を説いて聞かせ、雷鳴が近づくやいなや私たちを巻き込んで押し入れにこもったものだ。エアコンもない部屋の真夏の押し入れで3人身を寄せ合ったわけだが、暑さに閉口すると言うよりは、冒険ごっこみたいな少々のわくわく感と、本気で怖がる母の子供っぽい一面を見て子供ながらにシンパシーを感じたものである。しかしほどなく少年へと成長した私は虫取りと魚釣りに夢中になったので、もう母の押し入れ籠もりには付き合わなくなった。そして、夕立は魚釣りと虫取りを台無しにするので、それを引き起こす入道雲は嫌いになっていった。少年時代も終わり虫取りもしなくなると思春期に入り、もう入道雲はどうとも思わなくなっていった。
ところがここ十数年私は一転して入道雲が不思議に焦がれるほど好きになった。いわゆるゲリラ豪雨や熾烈な災害をもたらすスーパーセル(巨大積乱雲)ではなく、日本サイズというか、夏の日の締めくくりの夕立をもたらす程度の入道雲が私の好む積乱雲である。しばらく窓から眺めていると、雲は秒単位で形を変え、太陽の光を真っ向から受けた先端部分は限りなく白く輝く。その白さは色彩図鑑の白の定義をはるか超越した、マグネシウムが燃焼するときの閃光のような白で、破格の光量を浴びせてくる太陽に堂々と立ち向かう勇者の横顔のようだ。見ている者のしぼんだ心を叱咤激励してくれる。あの強烈に白く輝く先端には、どんな世界があるのだろう? 別の宇宙空間への入り口があるのかも知れないと思うほど神秘なインターフェースだ。その場に立ってみたい気もするが、厳かすぎて恐れ多い。
今日の診療では、高齢者に交じって数人の真っ黒に日焼けした元気な十代の子がいて、その張りのあるきれいな腕にワクチンを打った。施注しながら何故かその子らからすごく貴重なエネルギーをもらったような気がした。こんな毎日の中で自分の中で若さがすっかりしぼみかけていたから、成長盛りのはち切れんばかりの無邪気な元気や勢いに激励してもらったのかも知れない。入道雲を見た時と似ている爽快感を覚えた。
とにかくCOVID-19 のパンデミックで社会も人の心も狭い容器の中で真空密閉されたような閉塞感が支配する日々の中で、こうした底抜けに力強くプラスのエネルギーを感じる瞬間がある。ムクムクと上昇するエネルギッシュで白く巨大な入道雲の痛快さが、少し老いて元気のない今の自分には一番のリバイタライザー(元気や生気を復活させるもの)なのかも知れない。早くこの夏の風物詩である入道雲を、リバイタライザーとしてではなく自然界の荘厳な一現象として、普通に見られる日が来ると良いとつくづく思う。フェイスマスクなど取り去って、普通に語り合ったり笑い合ったりして、夏の祭りや花火を集って楽しめる日が来ると良いと心から願う。
(真夏日の診療の後で。2022年8月)
 

2022-11-24 22:25:42

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天国の土曜日〜4月の雨の日

天国の土曜日(This is like heaven)
 土曜日の昼下がり。少し量が多かったブランチで満腹。窓の外は朝からずっと雨が静かに休むことなく降り続けている。黙々と寡黙に流れ作業のノルマをこなす労働者の手元を見ているように、庭に水たまりが出来て雨だれの同心円が繰り返し重なり合いながら広がっていく。裸ん坊だった沙羅の木はしたたかにも素早くシーグリーン(海緑色)の柔い肌着を纏い始めている。ハナカイドウはうつむくようなピンクの花を枝いっぱいに擁して、はにかんだ自己主張をしている。妻はソファーでiBookの小説に没頭している。丸山コーヒーのドリップを入れて、神戸の姉が誕生日に送ってくれたマカロンを冷凍庫から取り出し、暇な時間を堪能する。今日は定期休診の土曜日。私にとって「天国の土曜日」である。
 診療所を開いた当初は土曜日も午前中診療していた。しかし、診療が終了したからと言ってすぐに帰宅できるわけはないことがほとんどであった。私の場合はひととおり診察した患者さんの診療録を見直して追補・整理して、画像所見も再度見直す作業をするので、どうしても残業が数時間に及ぶ。だから診療は午前のみでも帰宅は暗くなってからであった。患者さんの来院数が増えた今となっては、復習業務は必然膨大となるので、TVのプライムタイムはとても縁遠いものとなっていった。
 こうして夜にしか行動できない生活が何年か続き、私のセロトニンの分泌量は確実に減り、骨も脆くなりかけ、何のことない雪かき作業で肋骨を傷めたりする羽目になった。スタッフたちは元気を装っていたが、疲労がたまってきている側面が垣間見えた。そこで第2,4,5土曜日は終日しっかり働き、第1、3土曜日は終日休診にしてゆっくり休む、メリハリのきいた体制への変更に踏み切った。
 思えば、私が医師になって初めて赴任した病院は1400床のマンモス病院で、当時土曜日も17時まで通常診療していた。休みは日曜日と祝日だけであった。気力も体力も充実していた当時のことだから特に不満には思わなかった。そもそも日本には週休の概念はなく、江戸時代には基本的に盆・暮れ・正月とお祭りの日くらいしか休みがない職場がほとんどだったようだ。ユダヤ教の安息日にあたる土曜日、その翌日である日曜日はイエス・キリストが復活した曜日であることからミサが執り行われるのが慣習で、明治に入って欧米との交流がさかんになるとともに日曜日は「休みの日」という概念が日本でも定着していったようである**。一方、週休二日制については、1965年に松下幸之助の号令のもとで松下電器産業(現パナソニック)が始めたそうで、他の企業が導入しはじめたのはそれから15年も後の1980年頃、官公庁に導入されたのはさらに12年遅れの1992年、そして公立小中学校及び高等学校の多くでは2002年に毎週土日が休みになったとのことである***。
 それにしても雨は止む気配もなく、水を得た庭の木たちは風呂上がりの子供のようにつやつやしている。窓越しにしっとりと潤んだ景色を見やって、おもむろに内田康夫の推理小説を手に取った。浅見光彦という立場上は穀潰しのフリーライターだが、かなりのイケメンで、犯罪捜査には天才的な能力を持つ探偵が主人公で活躍する旅情ミステリーだ。ストーリーもさることながら、その土地の名所や名物の記載にかなり興味をそそられるのが常である。よく学会で旅行した際には作品に出てきた名所に足を伸ばしたり、名物を食したものである。通常ウィークデーは必要に迫られて医学書ばかりしか読まないので、リラックスした旅先だけのご褒美として推理小説を読んでもいい自分なりの決め事がある。しかしCOVID-19のパンデミックで自粛生活を始めて以来旅はしなくなったので、その単庫本は三分の一ほど読んだあたりで止まったままだった。今日は土曜日、明日も休み、月に2回だけ訪れる「天国の土曜日」だ。だから解禁とばかりに読み始めたが、空白時間が長すぎたのかすっかりあらすじを忘れてしまっていたので、結局最初から読むはめになった。幼い頃から外遊びが好きだった私は、正直雨が大の苦手であったが、こうして「天国の土曜日」にしとしとと人の心の中まで入り込んで来て降る雨は、渇いた心の中の土壌に恵みの雨になっているに違いない。ステイホームは、ある意味、あふれる便利がもたらす刺激と享楽で麻痺してしまった心を、見つめ直して鎮める機会を与えられたものと理解してよいのかもしれない。
*:テレビ・ラジオの視聴率・聴取率が最も高い時間帯。普通19時から22時のことをさす)
**:“武将ジャパン”より
***:“Japan Forbes”より
 

2021-05-23 15:53:51

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ドライブの勧め

ドライブの勧め
  久しぶりに見る木々は、季節を象徴するように紅や黄、ゴールドのモザイクで秋色へと衣替えした。公園のベンチでTully’sからテイクアウトしたコーヒーと、妻お気に入りのパン屋で買ったBLTとベーグルサンドがブランチのメニューである。10月は地域の講演会の講師依頼があって、その準備のため休日は外出もせずに終日コンピューターに向かって過ごすことが多かった。平日は帰宅が夜遅いので、朝の通勤の時にしか季節の変化を眼にすることができない。楓の紅やイチョウのゴールドが、鮮やかすぎて軽く眼に痛みすら覚える。でもそれは心地よい痛みで、コロナコロナで停滞した感性のせせらぎを浄化し、脳裏に澱んだ不安や憤懣を払拭していく。
ブランチを済ますと、久しぶりに少し遠くまでドライブしようと言うことになった。目的地は特に決まっていない。いつもそうであるように、私たちのドライブはまず雲のない空が澄んでいる方角に向かって走り出す。窓外の風景やその日の気分で候補地が絞られ、過去の記憶の後押しで目的地が決まっていく。
   思い返せば私はおそらく標準よりかなり長い時間をドライブに費やしてきた方だと思う。大学は新潟市にあり、日本海に面した海の気候は長野育ちの人間にはとてもきびしいものだったので、車は必需品と言ってよかった。裕福とはとても言えない家庭だったが、両親は大学生のわがまま息子のために中古のカローラクーペを買ってくれた。思いがけず手にしたカローラは実によく仕事した。通学はもちろん、大学から18kmも離れた好条件の家庭教師のアルバイトにもありつけた。帰郷すれば家族を連れてあちこち遠出のドライブに出かけたり温泉旅行にも行くことができた。もちろん車好きの仲間と夜ごとドライブに出かけた経験は、私の大学生活の思い出のトップランクに位置している。
    妻とは大学時代に知り合ったが、二人で過ごす時はいつも車が欠かせなかった。妻もドライブ好きで、天気がよければ海を見に、新緑がきれいならば山に、星がまたたく夜ならば弥彦山の頂上に、霧深かければベールを被った神秘な街並みを探索しに、見知らぬ道を探してドライブに出かけた。本当に信じられないほど様々なところへ車で出かけたものだ。学生時代は体力も充実、時間はとてもフレックスだったので、近隣県であればほとんど躊躇無くデイトリップに出かけることができた。山形県のサクランボ狩り、紅葉を見に阿賀野川沿いに福島の会津若松まで、暑ければ志賀高原へ涼を取りに。夏ともなれば延々と続く海岸道路を流しながら、好きなビーチで海水浴を楽しんだ。特にお気に入りだったのが、日本百名道のひとつでもある越後七浦シーサイドラインで、昼間は海の絶景と、夜は明かりを灯して漁をする漁船たちが遠く波間に揺れて神秘的であった。きっと走行距離はプロドライバー並みだったと思う。
  それだけ走れば運転技術は必然向上するし、様々な場面に遭遇するので経験値も上がってくる。道は自分だけのものではなく、他車の自由を無視したりするとこっぴどくしかられる経験もした。必然自分と他車との関係性をできるだけ瞬時に理解して、お互いが気持ちよく走れる関係性を保つ、言わば「車交際術」が身体にたたき込まれた。つまり時間軸を加えた4次元の中で自車の位置や振る舞いを客観的に捉える能力が育くまれた。それだけに昨今の交通マナーにおけるパラダイムシフトには大きな戸惑いを覚える。巨視的な、はやり言葉で言えば「俯瞰的な(ふかんてきな)」視野で見て運転している人が少なく、総じて自分が優先、他車への気配りは欠け、ひどいときはスマホやテレビを見ながら蛇行運転をしている人もいる。いらいらした後続車をたくさん従え、のんびりマイペースで追い越し車線を走行している車が多く見かけるように思う。
  交通マナーと言えば強く感銘を受けたのはカナダを車で旅行したときのことであった。都心ではなく観光地であったせいもあるが、ドライバーたちは皆穏やかでジェントル、それでいて他車の挙動には極めて敏感で、少しでも自分より速度が速い車が後方から近づいてくると路肩に寄って減速、先行させてくれるのだ。日本では考えられないほど長い工事用信号で停車すると、皆エンジンを切り、外に出てストレッチをしたり景色を眺めたりして思い思いに待ち時間を過ごすのだ。こうした環境ではクラクションで威嚇したり、まくり運転などは必然的に生じようがない。車だけではない。空港や駅で並んで順番を待つ時などでも、できるだけ他人の進路を妨害することを避け、お互い適度な距離を保てるように視線で語りかけたり声をかけたりして上手に調整するのだ。背中に眼があるのではないかと思われるほどその敏感さは驚くほどで、おそらく幼少の頃より他人との距離感の保ち方や他人の自由や意思を侵害しない関係性について、徹底的にしつけや教育がなされるのだと感じた。様々な思想や宗教の多民族が集まる国ならではの常識であり生き方なのかもしれない。
  今日のドライブのBGMは最近お気に入りのギター曲集を選んだ。ゆったりとしたバッハのカンタータの演奏にマッチして、車は真田町の山間のたんぼ道を走っている。林檎の実は赤や黄色にたわわに実り、その背後の山は光合成を終えた木々を擁して、晩秋の澄み切った青の空にもたれかかって一休みしているかに見える。私たちの心も大あくびしたので、車を止めて林檎の実をバックにスナップ写真を撮った。今日のドライブも100点満点の出来とばかりに特上の秋のスナップが撮れた。何歳までこうして二人でドライブを楽しめるだろうかと少しの不安と、大きな期待と夢を心に帰路に着いた。(2020年11月8日)

2021-01-16 19:43:00

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雌のカブトムシ

雌のカブトムシ
 久しぶりにきっぱりとした夏の日。長い梅雨がようやく明けて初めての土日、クリニックは二連休だ。普段は屋内ばかりに居るので、夏の日射しは眩しすぎるくらいに明るい。頭上から容赦なく照りつける盛夏の太陽は、木々の葉の一つ一つまでくっきりとしたシルエットを地面に投影して、夏模様を描画していく。柏崎で親類の法要に参列後、海岸からほど遠からぬ寺院へ墓参に来た。街並みから隔離された墓地の木立は昆虫たちの天国で、蝉時雨が僧侶の読経を伴奏に変えた。線香を上げる間も、キアゲハ、そして次はカラスアゲハと、広いストライドで駆け抜けるアスリートのように、蝶が優雅に舞っていく。少年の頃から無類の昆虫好きだった私には、何と心地よい情景だろう。私の目の前のランウェイを、それぞれの個性を主張して通り過ぎていく昆虫たちを見ていたら、子供だった頃の夏へのノスタルジアのドアが開いた。
 少年時代の私はカブトムシとクワガタにほとんどの夏を捧げたと言っても過言ではない。夏休みには実家に程近い頼朝山へ毎日昆虫採集に出かけた。頼朝山は、豊富な甲虫類を授かることができる、私にとっては聖なる山であった。毎日1回、時には2回出かけたので、虫が居る木は隅から隅まで知り尽くしていた。採った虫たちは飼育箱でだいじに飼って、暇さえあればその生態を眺めて満足していたものだ。
 カブトムシと言えば、母が亡くなった夜、不思議なことが起こった。葬儀の段取りなどで疲れ果てた私は、深夜夕食を求めて近所のコンビニに立ち寄った。買い物を済ませて出ようとしたとき、入り口のマットの上に仰向けでもがいているカブトムシを見つけた。手に取ると立派な雌のカブトムシであった。コンビニの灯りに吸い寄せられて飛来したのだろう。その瞬間、これは母だと直感した。母は私が少年時代夢中だったカブトムシに姿を変えて現れたのだと。脳卒中で体が不自由だった母は、遠く神戸に嫁いだ姉が介護をしたいので一時期あずかりたいと申し出てくれて、姉の家で療養していたが、そこで次々と苦難の合併症に見まわれ病態が悪化した。結局長野に戻ることができなくなり、遠く故郷を離れて永眠した。そんな母の魂はさぞかし帰郷したかっただろうと想像できる。私はそのカブトムシを取り上げて服の胸にとまらせた。そして、抱きかかえるようにして家まで連れて帰った。不思議にカブトムシは私の胸元から逃げようともせずしっかりしがみついたままだった。小一時間カブトムシはカーテンの上でじっとしていたが、就床直前に庭の沙羅の木にとまらせてあげた。翌朝確かめると、カブトムシの姿は既にいなくなっていた。沙羅双樹は、お釈迦様が入滅した場所に生えていたとされる木である。母の魂も無事に旅立ったのかもしれない。
 その時以来昆虫は亡くなった人の化身という私の思い込みが定着した。モンシロチョウを見れば自分をこよなく愛してくれた祖父だと思い込み、キアゲハを見れば叔母だと感じた。母がカブトムシに化身したのは一度きりで、その後はカラスアゲハやクロアゲハとなってことある毎によく現れた。頻繁には現れないけれど風に乗ってふいに訪れるオニヤンマやギンヤンマは父だと思う。
 こうして私は昆虫を見ては故人を想う。故人の様々なエピソードやシーンをニューロンのネットワーク、つまりセル・アセンブリ(細胞集成体)をフル稼働して再生する。何度も何度も。しかし、このセル・アセンブリも私の脳の活動が健康である前提のもとでしか存在し得ない。開業して6年、初診時は軽度認知障害もしくは軽い認知症だった患者さんたちの海馬は月日と共に菲薄化し、大切なセル・アセンブリが無情にも確実に奪われていく。その様を日々観察していると、やるせない想いが私を満たす。かけがえのない大切なニューロンの活動を何とか健康に保つすべはないものかと、歯がゆい思いと憤怒に似た感情が日々私にジャブを繰り出してくる。そもそも人の生涯は一度きりしか上映されない映画のようなものだから、観た者がきちんと脳裏で再生して、そして何らかの形で記録に残すことが、その人がどのように生きたかの証となる。自分の大切な人のことはこうして随筆などの文章にして、そして患者さんのことは診療録の中に、せっせと労を惜しまず記録していかなければならないと痛感する。
 お盆もすぎ、あのうだるような暑さはあっさりと去った。今日は母の月命日だ。ふと窓外を黒い影がよぎったので窓に近づいてみると、見事なカラスアゲハが楽しげに庭を舞っていた。間違いなく母だろう。私にとっての昆虫は、いまは亡き大切な人々を回想するための使者なのかもしれない。
(2019年8月)
 

2019-08-25 22:37:56

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ヤマトシジミ

ヤマトシジミ
  
IMG_4626 (1).jpg 季節外れの台風が、南の夏を連れて日本海を北東へとゆっくり通過していった。連なる高峰(こうほう)に守られた長野盆地にしては、珍しくやや強めの風が吹いて、秋の中盤を謳歌する木々や草花が揺れた。このノスタルジックな夏っぽい風が去ると、今度は打って変わって秋が深まった。久しぶりに晴れ上がった肌寒い昼下がり、車に乗ろうとしたらグレイの羽が折れて変形した小灰蝶(シジミ蝶)が地面に横たわっているのが目に入った。ヤマトシジミだ。そっと羽をつまんで拾い上げるとまだ息があり、羽ばたこうともがいた。8月終わり頃から、出勤時にほぼ毎日飛んで来ていたのに、ここしばらく見かけなかったので何だか懐かしささえ覚えた。
 ちょうどヤマトシジミを気にとめるようになった少し前に愛犬を失った。実によくできたかわいい犬だった。俊敏でよく駆け回る様を見て、義父が「駿」と名付けた。男の子だったので幼犬の頃はやんちゃだったが、成犬になってからは素直で聞き分けがよく、性格がまっすぐで純粋、やきもちをやいたり拗(す)ねたりなど、変に人間ぽいところは一切なく潔(いさぎよ)かった。何よりありがたかったのは同じドッグフードを文句ひとつ言わず毎日喜んで食べたことだった。少々体調不良で元気が今ひとつでも、与えるご飯はいつも完食した。だからすぐに元気になった。どこに行くにも一緒に連れて出かけた。連れて行けない時は、朝から晩まで家を留守にしても、暗い部屋でじっと寝て待っていて、私たちが帰宅すると飛び跳ねて喜ぶ子だった。海外旅行に行く時は友人宅に預けたが、その家にもすぐに馴染んで、我が家の犬のように可愛がっていただいた。物怖じしない子でテレビ出演も3回した。アニマルセラピーで、少し乱暴な子に引っ張り回されても文句ひとつ言わずに従った。生涯で人を噛んだことは一度もなかった。
 クリニックを開院してからは必然終日院長室で過ごした。朝出勤してから診療終了するまでの長い時間をただひたすら院長室で寝て待った。昼時にはクリニックのスタッフからおやつをもらえるのを何よりの楽しみにしていた。院長室の私の机の下がお気に入りで、仕事に区切りがついて院長室に戻ると「ごくろうさん」と云わんばかりにのっそりと出てきたものだった。
 晩年は歩くことが困難で立ち上がることもできなくなった。しかし食欲は落ちることなく、決まって朝はヨーグルトとミルク、昼はスタッフの膝枕でフードを口まで運んでもらい介助されながらほぼ完食した。夜は食べたり食べなかったりであったが、私が栄養不足と判断した際は栄養ゼリーを注射器で口に流し込んであげた。最初多少は抵抗したが、その後はそういうものだと観念したのか、ごくごくと上手にプロテインやビタミンゼリーを嚥下した。そんな寝たきりの老犬になっても駿は実にイケメンで、若い精悍さから転じて丸みを帯びておっとりした愛くるしさへと脱皮したようだった。紛れもないアイドルの座はキープし続けた。
 8月に入って突然痙攣発作が止まらなくなった。原因はわからなかったが、痙攣止めの注射を驚くほど大量に使わないと止まらなかった。人間ならばとうに呼吸が止まっておかしくないと思いながら私は痙攣の度に注射を繰り返した。しかしとうとう恐れていた肺炎を併発した。最後の日は、かねてから自分の定位置だったソファーに力なく横たわり、痰が絡まり呼吸が苦しそうだった。電話で問い合わせたら動物病院で喀痰を吸引してくれるというので、さあ行こうと抱き上げた。抱っこされるのがあまり好きでなかった駿は、抱いた際に身を預けてくることはめったになかったが、その時は駿の顔が私の頬にピタッとくっついた。それが最後の力ない頬ずりだったようで、車のシートに横たえたときにはすでに事切れていた。
 駿が去ってから気違いみたいに暑い日々が続き、心の中の海が枯れていき、底には尖って辛い塩の結晶ができた。悲しさと寂しさは日ごとに募った。心がよれよれのしわだらけになっていた頃、毎朝重い気持ちで玄関を開けると必ず小灰蝶がやってきた。自家用車に乗るまでのほんの十数歩の間に私の周囲を戯れるように舞った。何度か見ているうちに、これは駿の化身ではないかと思うようになった。雨の日以外は本当に会わぬ日がないくらいに蝶はやってきた。駿の化身という直感は確信へと変わった。来る日も来る日も会うたびにエネルギーをもらった。それから雨の日が続いて、台風が来たりで悪天候が続き、やがてメランポジウムは枯れだして、ヤマトシジミに会う機会もめっきり減った。駿の化身に会えないことでまた一層密度を増した寂寞が私たち夫婦をすっぽりと包むようになった。
 ヤマトシジミは羽化してから2週間ほどしか生きないらしいので、私の足元に瀕死の状態で横たわっていた蝶は8月から見ていた蝶と同一ではなく、おそらく何代目かの蝶かもしれない。私の手のひらで最後の力を振り絞ってうごめく蝶を家の中に持ち帰り、手向けたばかりの仏壇の黄色の菊の花弁に乗せてあげた。するとヤマトシジミはシャキッと花弁に留まってとうとう一晩過ごした。しかし翌日には少し元気になったのか菊の花から何度も飛び立とうとして落下した。でも羽は折れて曲がったままだ。その仕草を見ているうちに、今度こそお別れだと蝶が主張しているように思えた。だからヤマトシジミをそっと捕まえ、玄関のメランポジウムのプランターに離してあげた。花は既に枯れて茎が茶筅のように残っている茂みの中へと蝶の姿は消えてついに見えなくなった。 「さようなら駿、ありがとう」と、心の中でつぶやいた。
(20018年10下旬)
 

2018-11-11 22:44:56

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鳩時計

 五月が来た。こよなく愛する季節。空はライトブルー。瑞々しい青だ。色の図鑑で探してみると、「勿忘草(わすれなぐさ)色」が最も近いように思える。花の色から由来するらしいが、潤いのある明るい青だ。古代中国の五行説では、四季にそれぞれ色が当てられ、春には青を当てられたという。人生を四季に当てはめると、夢や希望に満ちて活力みなぎる若い時代が春であり、これが「青春」という言葉の語源になったようだ。久しぶりに晴れ晴れとした気持ちよい日なので、冬の間、果物や野菜のコンテナ置き場と化していたウッドデッキを片付けて、本日オープンとした。
 つい一月ほど前まで裸ん坊で、寒風に耐えるべく冬仕様の鎧みたいな木肌を纏っていた庭の木々は、早変わりで生気みなぎる緑のワンピースに衣替えした。隙間ないほどに茂った若い葉をすり抜けてくる風は、五割の夏と、二割の春、そして三割の梅雨の予感が混ざっている。頬に気持ちよい。
 庭木の中でもみじは新築祝いに中学の同級生がプレゼントしてくれたものだ。成木の状態で移植されたので、庭木の中では一番の年長だ。その権威を傘にきているわけではないだろうが、例年領域なく枝葉を伸ばして隣の木々を圧倒する。今年もしかりで、ウッドデッキの居住空間まで枝葉がひゅんひゅんと伸び出している。そろそろトリミングが必要そうだ。そんな思いで根元から先まで目線でスキャンしていると、屋根と柱が交叉するあたりの暗がりの部分に鳥の巣らしきものがあることに気がついた。こっそり覗き込もうと顔を近づけたとたん大きな羽音と共に予想外に大きめの鳥が不意に現れ、たちまちどこかに飛び去った。巣の中には2個の白い卵が確認できた。親鳥はと探すと一番近くの電信柱のてっぺんにキジバト止まっていて、こちらを心配そうにうかがっていた。早々にウッドデッキから引き上げて、こっそりカーテンの隙間から観察していたところ、親鳥が巣に戻って来て再び卵を抱くのが確認できた。
 それにしても、よくぞこんな小さなわが家の庭木を、巣の設営場所として選んでくれたものだ。付近にはちょっとした森みたいな木々を擁した広い敷地の邸宅も散在するというのに。なんともうれしいやら誇らしいやら。
 翌朝からカーテンの隙間から巣を観察するのが私の日課になった。時々親鳥と眼が合ったが、警戒の眼差しは緩めないものの毅然とこちらを見返し、逃げ去る気配はなかった。通常キジバトは抱卵も子育ても雌雄一対が交代で行うという。交代の瞬間一時的に親鳥が不在となるので、その時が巣を観察するチャンスとなるという。ある朝親鳥の姿が見えなかったので、そっと近づいて手を伸ばしてスマホで巣の中をビデオ撮影してみた。すると何と巣の中には2羽の雛が誕生していた。黄色の柔い羽が風に揺れて、まだその身の一部が卵の黄身のままなのではないかと錯覚してしまうほど何とも無防備で脆弱な生き物がかすかに動いていた。にわかに芽生えて膨らむ親心。もっと見守っていたいと後ろ髪を引かれながら出勤した。ようやく仕事を終えて夜遅くに帰宅して、風にそよぐ枝葉越しに巣を守る親鳥のシルエットを確認できた時は胸をなで下ろした。
 キジバトはひな鳥を育てる際、雌雄とも「ピジョンミルク」と呼ばれる文字通りミルクのように真っ白な液体栄養素を、「そのう」という器官で作って、それをえさ代わりに与えるのだそうだ。栄養豊富なピジョンミルクを飲もうと複数の雛が親鳥の口の中にくちばしを突っ込んでむさぼる動画をインターネットの観察記録で観た。卵で産んでミルクで育てたり、夫婦二交代性で子育てをするなど、人間よりはるかに効率的で進化した養育のあり方と思われる。そんな微笑ましくも模範的な子育ての姿もやがて垣間見ることができるだろうと期待して、窓越しにそっとお休みを言った。
 それから間もないある朝事件は突然起きた。巣には親鳥の姿がなかった。交代時間なのだろうか。これはシャッターチャンスとばかりにスマホを携えて巣に近づいた。ところがそこに雛は1羽もいなかった。巣立ちには二週間余りかかるそうだから時期的にはまだ早すぎる。何が起きたのだろう。しかしもう出勤時間だ。車に乗り込む際にちょうど一羽の親鳥が戻ってきて、巣がもぬけのからなのを確認してこちらを振り返った。驚きと不審の視線に思えた。私は眼で、「僕たちの仕業ではないんだ。一体何が起きたのか僕たちにもわからない!あの子たちはどこ?」と訴えかけた。無論親鳥はそれには反応することはなく、あきらめたように飛び去った。私たちは鉛を飲み込んでしまったように重たい気持ちで家を離れた。
 それから数日間、もしやひょっこり親鳥が雛をくわえて巣に戻ってくるのではないかと未練がましく巣の観察をしていたが、住人の居ない空き家は風雨にそぎ取られてぱらぱらと崩れて巣の原型をなくしていった。そしてわが家のもみじは何だか一頃の勢いはなく、やけにこじんまりと葉を纏っている。あの時は巣を隠すためにもみじも懸命だったのかもしれないなどと感傷的な思い込みをしてしまう。折りしも電柱の上で雄のキジバトが鳴き出した。あの時の親鳥の一羽かもしれない。そののんびりしたマイナー調のリピートは曇り空の昼下がりにマッチしていた。梅雨の到来を予感する天然の鳩時計のようでもあった。それを聞きながら、自然の摂理を受け止める寛容さと冷静さは動物の方が一枚上手のようだと感じた。(20018年5月)
 

2018-07-05 21:06:56

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小倉のみぞれアイス

小豆のみぞれアイス
  生家で使っていた古い洋服ダンスタンスを整理していたら、菓子の空き箱から父の古い写真が出てきた。手札サイズのモノクロで、黄色いシミが数カ所に付いている。スキーを担いだ男性5人が雪景色をバックに楽しそうに笑っている。向かって一番右端が父だ。昔の人は一回り老けて見えることを差し引くと、おそらく30歳代。父は晩婚だったのでひょっとすると独身の頃の父なのかもしれない。スキーをこよなく愛した父は、よく飯綱鉱泉(現在の飯綱高原スキー場脇)までスキーを担いで徒歩で登り、昼を食べて一風呂浴びてから帰りの長い下りを一気に滑降してきたそうだ。その爽快さたるや無比のものだったと、夢見るような表情でよく話してくれた。家の中では無口で無表情なほうだったので、父がそうした一面をのぞかせるのはごく限られた時だった。この話も、たいていは幼い私をスキーに連れて行ってくれるバスや電車の中、二人だけの時に話してくれたものだった。
 私が幼かった頃、喘息持ちだった母は度々重い発作を起こしていた。姉は私より6歳も上だったので、既に男親と行動を共にする機会は少なくなっていた。だから休みになると父はよく私だけいろいろなところへ連れて行ってくれた。それにしても今考えると親子連れで遊びに行くには結構レアな場所が多かった。しかも父は自動車免許を持っていなかったので、お出かけはいつも公共交通機関を使った。例えば安曇野の明科にある長野県水産試験場。当時そこではニジマスの養殖池を一般入場者のために釣り堀として解放していた。そこに行くには、篠ノ井線の各駅列車で片道一時間はゆうにかかっただろう。蒸気機関車の煙が猛烈に煙くて長い冠着トンネル(かむりきトンネル:姥捨駅-冠着駅間にある全長2,656 mの鉄道トンネル)と、姥捨駅で繰り広げられるのんびりしたスイッチバック(急勾配を登坂するためにとられた運転形式)のショーと、ちょっとしたday tripだ。父はたいてい長野駅で冷凍みかんと駅弁を買って、姥捨のスイッチバックのタイミングで二人で食べた。試験場のニジマスは少しもすれていないのでおもしろいように釣れたから、実質釣りを楽しむ時間は30分がいいところで、今考えるとこの旅の醍醐味は往復の汽車の旅だったのだろう。
 別のある夏の日、父は「今日は化石を採りに行こう」と言い出すや母におにぎりを握らせ、二人で戸隠行きのバスに乗り込んだ。つづら折りの県道戸隠線をボンネットバスは器用に上ったが、私はすっかりバス酔いしてしまった。限界が近づいた頃ようやく柵(しがらみ)郵便局前の人気のないス停で降りた。獣道のような道だったが、父は勝手を知ったように草をかき分け裾花川の川縁まで降りて行った。そこにはやや傾斜した明瞭な縞模様の崖が切り立っていて、星のように無数のホタテ貝の化石がそこここに混じっていた。現在の戸隠栃原にあたり、資料によると、戸隠連峰自体が地質学的には約500万〜400万年前(新第三紀新世)の海成層から構成されていて、かつて海だったフォッサ・マグナ地域に堆積した層がその後激しく隆起してできた地域だと言う。ホタテ貝類の化石が算出することで江戸時代から知られていたらしい。化石とは言えど石、なんとも重いので数個を採取して持ち帰るのがやっとだったが、以来それらが私の宝物となったことは言うまでもない。やがて数十年の年月を経て、すっかり老いた両親を私の官舎の近くのアパートに転居させ、生家を引き払う際に化石は廃棄してしまった。今考えるともったいないことをしたものだ。それにしても何故父がその場所を知っていたのかは今も不明である。中学校で教鞭をふるった時期もあった関係で知り得たのかもしれない。 
 そう言えば私は驚くほど父の若い頃の話を知らない。太平洋戦争に徴兵されて戦地は東南アジアだったようだが、戦争のことはほとんど話すことはなかった。現地のバナナが美味しかったことくらいだろうか。捕虜になって、終戦から1年ほど経て南紀白浜に海路でたどり着いたようだが、これも聞き出した義兄から伝え聞いたことで、父の口から私が聞いたことはなかった。兄弟姉弟は6人いたようだが、結核や疫痢などの感染症で4人が亡くなり、最終的に残ったのが長男の父と四女の叔母だった。叔母は生涯独身だったため最後は私が看取ったが、父の話と言えば「長男で威張っていたのよ」とか、「甘いものが好きで、元善町の長門屋(善光寺門前で甘味や軽食で古くから有名だった茶店)で買った大福餅を一度に10個も食べてしまったのには驚いたわ」とか、「兄ちゃんがなかなか大学に合格しなかったので私は優等生だったのに銀行に入行する道を選ぶしかなかったのよ」などと、あまりよいことは言わなかった。法事の席では酔った親戚の者が、「君の父上は極楽とんぼのように自由な人だったな」などと、褒め言葉とはとりにくい微妙な回想をしたりして、応対に困った記憶がある。若き日の父はあまり愛されない変人だったのだろうか?
 晩年父は認知症になった。だが、閉口するような手に負えない周辺症状はほとんど見せなかった。とても可愛いお年寄りだった。私の妻も、実父に対して以上に親身で好意的によく看てくれた。病院に入院すれば不思議に若い看護師さんに人気があり、とても愛情を注いでもらった。某病院に入院した際も、トイレに行って部屋に戻れない父のために、大きなサンタクロースのぬいぐるみを看護師さんがわざわざ買ってきてくれて病室の入り口に目印として取り付けてくれた。“一(はじめ)さん人形”と彼女たちは呼んでいた。そうか、父のシンボルマークは彼女たちにとってサンタさんなんだと、内心とてもうれしかった。
 父がいよいよ認知症の末期で、経口摂取が困難になる時が訪れた。入院中の病院に私と妻は呼び出され、胃瘻の同意書にサインをした。あの食いしん坊だった父が口に食べ物を含めなくなることが辛くて、父を無理矢理ベッドから車いすに乗せて病院の見晴らしのよい場所に散歩に連れ出した。意識がもうろうとしてうとうと閉眼しがちな父に、売店で買った小豆のみぞれアイスをさじでほんの少し口に含ませた。「おやじさんの好きな小豆だよ。大福餅と同じ小豆だよ」と。アイスは口の中で溶けたが、目を閉じたままの父は嚥下したふうには見えなかった。そしてこれは父が生前最後に舌で感じた味覚となった。それから約一年父は胃瘻から栄養を補給されて、眠ったまま静かに世を去った。息を引き取ったという電話は折りしも私が患者さんに翌日の手術の説明をしている真っ最中だった。だからすぐには駆けつけることはできなかった。あいにく妻は実父の調子が悪く新潟の実家に帰っていたので長野にいなかった。だから父は誰にも見送られることなくひとりで逝った。
 結局父は多くの謎と不思議を残して去って行った。人から「極楽とんぼ」などと言われた若い頃、父自らはあまり多くを語らなかった若い頃は、どんなものであれ今は素粒子に戻ってしまった父の脳裏と数枚のモノクロ写真のなかにしか存在しない。少なくとも私の脳裏には、出かけることや旅が好きで幼い私をスキーやレアな場所に遊びに連れて行ってくれたやさしく穏やかな父、食べることと呑むことが何より好きだった父、若い女性の看護師さんたちや介護士さんたちから愛された年老いた頃の父、そして家族の誰にもほとんど手を煩わせることなく静かに世を去った父の、極上の記憶しか残っていない。それでいい。でもこれを文章に残しておく義務がある。だから久しぶりに晴れ上がった小春日和のわが家のウッドデッキでPCに向かってこの文章を書いている。ふとアゲハチョウが私の周りを2周あまり周遊して屋根の上の方へ飛んで行った。深い理由はないが、母が亡くなった後いつも絶妙のタイミングで度ある毎に現れたことから、アゲハチョウは母の化身だと私は思いこんでいる。アゲハチョウが去ってほどなく、心地よい初秋の風が文章を書く私を撫でていった。そう、父はこの微風のような人だったような気がする。(2017年9月 秋晴れの午後)

 

2017-09-10 22:58:08

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