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長野市稲里町田牧 の 脳神経外科・神経内科 脳とからだの くらしまクリニック

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鯉のぼり

鯉のぼり
駿河湾は平坦なライトブルーの透明板を浮かべたように波もなく穏やかで、海を挟んで富士市の街並みは靄の中に沈殿し、富士山が雄大に凜々しく、しかしさりげなく視野を独占する。久しぶりに訪れた西伊豆の宿で日没までの小一時間をテラスで過ごした。穏やかな五月の始まりを演出する微風は海原の湿気を含んで少し肌に冷たく、潮の香りと新緑の木々が放つ爽やかなフィトン・チッドと混ざって、疲労と憂鬱で濁りかけた私の心を浄化した。ふとカラスアゲハがテラスをかすめるように数回行き来して舞っ行った。なかなかお目にかかれないカラスアゲハは私の中では母の化身と信じているので、今回の旅には母も同行して来たに違いない。それと時を同じくして仕事仕様のアラームが鳴り出した。毎日聞き慣れたアラーム音だが、休日に聞くと場違いでアラート以外の何物でもない。しかし意外やかえって非日常のたおやかな時の流れとシチュエーションを再確認できた気がして、不思議と満たされた思いが脳裏に浸透していく。そう、明日はこどもの日で日曜日、振替休日があるのであと2日間は仕事から解放される。そんな心のゆとりのなせる技か。
泊まった宿はなかなか高評価な宿で、今回予約が取れたのもよっぽど運が良かったのだろう。部屋は旅行情報誌に掲載されるような、模範的で端正な清潔感のあるコテージ風の造りで、半露天風呂まで付いている。何よりの売りは部屋のテラスから駿河湾越しに臨む富士山で、値段も高かったが年齢の割には夫婦して夜遅くまで頑張って仕事している褒美だと思い切って宿泊を決めた。夕食は広い空間のおしゃれなレストランで、テーブルもゆったりと配置され、感染面への配慮もさりげなく徹底していた。食事は私好みではなかったがなかなか洗練されていた。レストランのテラス席からベランダ続きにらせん階段を上ると、屋根を越える高さの円筒形のステージがあり「星見台」だという。夕食後に眺めたら北斗七星が頭上にきれいに見えた。さすがに天の川は見えなかったがsea levelに近い立地としてはまずまずな星空だ。部屋に戻ってコーヒーをいただく。私たち夫婦の取り決めとして宿ではテレビやDVDなどの映像媒体は観たり鑑賞したりしない。お互いが好きなことをゆったりと楽しむことにしている。二人ともたいてい小説や趣味の雑誌を読み、Bluetoothのステレオがあれば好きなプレイリストを流して心を潤す。
旅の途中の車窓から久しぶりに鯉のぼりを飾っている一戸建の住宅を見かけた。山梨県内だったように記憶しているが、2階のベランダから庭の地面まで斜めにロープを張り、鯉のぼりが数匹泳いでいた。珍しい飾り方だなと感じた。鯉のぼりと言えば、まだ父が若い頃幼児の私を抱きかかえ、二人とも満面の笑みで鯉のぼりのポールの前で撮影された白黒写真があった。今もフォトアルバムにはあるだろうが長年開いていないので変色してしまっているかも知れない。しかし改めて開いて見るまでもなくその写真のフレームは克明に私の脳裏に焼き付いている。おそらく父のもっとも幸福だった時期のワンカットだと一目見ればわかる印象的な一コマであったから。当時鯉のぼりは専用の竿竹があり、先端には矢車を付け、滑車を備えて国旗を掲揚するような要領で鯉のぼりを飾った。竿竹はかなり太くて丈夫で、用のない1年の内の大半は軒先に横に吊してしまってあった。鯉のぼりはたいてい祖父母や親戚が祝いに贈呈してくれたものである。私の鯉のぼりは誰が贈ってくれたかはわからない。飾る機会は年に数週間だし、おそらく数年、長くても10年には及ばないと思うので、ポールは軒先にいつの日か埃だらけになって、太すぎて物干し竿の代役のもならずに私が成人するまで家のパーツのように軒先にあったように記憶している。両親が老いて老老介護が不可能となり、家を引き払うときに処分した記憶がない。既に父が処分していたのだろう。どんな思いで鯉のぼりのポールを処分したかはもうわからない。
最後まで父はその古い住宅に固執していた。長男であったが父は実家を継がず家を出た。父を可愛がってくれた年の離れたいとこが長野市長になり、新しい市営住宅をいくつか建造した内の一つを優先的に提供され、私の両親と先に生まれていた姉が住み始めた。隣人にも恵まれ、待望の男児、つまり私を授かることが出来た。狭い住居の割に庭は広く、まさきの生け垣と赤いつるバラのプライバシースクリーンで囲まれ、ヒョロヒョロと背だけ伸びた桐の木、イチジクの低木、見事な大輪を咲かせる黒バラ、アヤメ、矢車草、マーガレットなど多種の花々が季節を彩った。草花好きだった母のキャンバスのような庭だった。父の父親は善人を絵に描いたようなgenerousな人だったが70歳で事故死し、長野県の女性史にも名が残る厳格で聡明な母、つまり私の祖母はゲーテの言葉をよく引用して物言いするような人だった。山スキーと大福餅、旅をこよなく愛した父にとって生家は少々居心地が悪かったのかもしれない。鯉のぼりの前の幼い私を抱っこした父の写真の笑顔はそれを物語っていたように思う。
伊豆からの帰りはフェリーで静岡港までショートカットして、新東名から藤枝、豊田松平インターから高速道を降りて県道に入り、山間の田舎道を延々と走って阿智村、中央道の飯田山本インターまでドライブを堪能した。山間にいくつか小さな家屋群はあったが鯉のぼりが飾られた家屋は見当たらなかった。おそらく高齢者ばかり住んでいて空き家も多いのだろうか。大きな家屋ばかりだがほとんどの窓は閉ざされ、少なくとも大家族が住んでいる住居ではないことは一目でわかる。しかしそこに住んでいる人々、おそらく誰それかの祖父母たちに当たる人達の脳裏には、私のそれと同じにかつて若かりし日に我が子を抱いて、鯉のぼりを仰いだり雛壇を眺めて満面の笑みをたたえた一コマが焼き付いているに違いない。高速道をひた走り家路に向かう西の空はヒアシンス色のくすんだ紫みの青に変わり、そして闇が訪れた頃私たちの今回の旅は終点であるわが家にたどり着いた。(2024年五月の旅)
 

2024-05-09 20:24:03

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ICN→SEA(ソウル→シアトル便)

ICN→SEA(ソウル→シアトル便) 

 もうすぐ節分とは言えまだ寒中だ。外気の冷たさを覚悟しながら、全身に覚悟しろよと総司令を発しながらクリニックの職員玄関のドアを開けた。一瞬キュンと外気が襟元に短いジャブを繰り出した気がしたが、一歩踏み出すと予想していたほど大した寒さではなかった。寒さが苦手なのでホッとする反面、微かに落胆もあった。信州の寒の内と言えば大気も凍り付く深閑とした氷点下が昔の常だった。私が受験生だった頃頭を冷却するために毎晩夜の散歩をしたものだが、二月の夜は風も止まり、地球から大気圏が消えて直接宇宙空間につながったように清閑な漆黒に恒星や銀河たちが恥ずかしそうに光を放ち、背の中央を警策(きょうさく、坐禅のとき、修行者の肩ないし背中を打つための棒)でぴしりと叩かれたような強烈で静かな寒さがあたりまえにあった。しかし今はその凜とした寒い夜はなかった。地球はこれまでも氷河期になってあたり一面凍ったり、恐竜の住んでいたジュラ紀には北極圏でも平均気温が15℃前後だったと言われているので、地球の気まぐれが少し動き出したのかもしれない。
 今日も帰宅がこんな時間になってしまった。診療はたいてい18:30までには終わるのだが、書類書きや患者さんの診療録の復習、画像の読影などをしているとどうしても21時は回ってしまう。最近仕事にせよ日常の生活動作にせよ、処理・遂行能力が低下したのか時間ばかり先走って過ぎていく気がする。下り坂で小走りしたら、次の一歩を素早く踏み出さない限り前のめりに転倒してしまいそうな、そんな思いで一日一日を駆け抜ける毎日。だからすっかり暗くなった駐車場に佇むと必ず夜空を見上げてほんの一時の自分の時間をpauseさせる。たいていの場合同じタイミングでジェット機の音が西北西から東南東へと夜空を横切っていく。ソウル→シアトル便で、20:05に仁川(インチョン)空港を飛び立って、遠く太平洋を横切りシアトルに向かう便である。飛行ルートを調べると、離陸から1時間余で長野の上空を通過し栃木の宇都宮方面に向かってから太平洋に抜けて行く。DELTAエアラインとKOREANエアラインのシェア便のようだ。今頃機内では遅い夕食がサーブされているのだろうか。旅の期待に胸膨らませる乗客たちがいる機内の光景を夢想しつつ夜空を横切る機体のアンチコリジョンライト(飛行機の胴体の上と下で赤く点滅する)を見えなくなるまで追う。ある意味私なりのマインドフルネス(現瞬間の体験に意図的に意識を向けるが評価したりとらわれたりしない、シンプルに観ること)の時間と言えるかも知れない。
  60歳代になると確実に自分も人生の後半戦にいて、たまに身近な周囲で起きるどんでん返しの現実を観ていると、今後の展開が見えない不安定で未知のシナリオに沿って人は皆が進んでいくのだと感ずる機会が増えてくる。しかしそもそもシナリオなんてないのかも知れない。英国の物理学者のジュリアン・ハーバーは時間そのものを存在しないとしていて、無数の静止した現在が少しずつずれた物質配置として存在して、人の脳がその無数の「現在」を認識することにより時間が流れるという概念が生ずるのだとしている(ブロック宇宙論)。簡単に言えばアニメの原理と同じで、少しずつ変化する静止した絵を連続で見るとあたかも動いているように見える仮現運動と似ている。ただ絵の場合は残るがブロック宇宙論では過去は存在しない。過去は次の「現在」の時点でもう存在せず、人の記憶の中にだけ残る。だから「今」を、「現在」をできるだけ高い品質にして積み重ねることが出来れば、記憶の中だけに存在する「過去」という時間が熟成するのだろう。
  節分前にしては少し手ぬるいと揶揄したけどじっと佇んでいると冷たい夜風が耳元をすり抜け、ブルッと身震いが起きた。仰ぎ見ていた旅客機はシアトルに向けて東の空に消えて行った。「Bon boyage(ボンボヤージュ)」とつぶやく。半年前真夏の夜に、3億万㎞離れた地球の軌道円の反対側で同じように夜空を見上げていた自分は既になく、40数回前この軌道のこの位置にいて極寒の夜に散歩して夜空を見上げていた自分も今は存在しない。だが私の脳の中に記憶として熟成して残り続けている。人の脳に「bravo(ブラボー)!」。私の脳に「bravo!」。(2024年2月初頭)

2024-03-15 23:06:10

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誕生日

誕生日
 令和5年の師走は初旬から中旬にかけて最高気温が15度を超える日が何日か続き、自分が生まれてこの方人生の大半でイメージしてきた師走とは異なる冬の日が連続した。しかし下旬になるとようやく冬らしさを感ずるようになった。大晦日が当番医と言うこともあり通常診療を早々27日で閉じてしまったせいか、年末独特の「年の瀬」感がないまま24時間区切りの日々が繰り返して、あっさり新年を迎えた。昭和の時代を30年余も生きた人間にとってはなんとも味気ない年越しだが、時代とともにパラダイムも大きくシフトしてきて、昔に固執し過ぎるとどこかに歪みが生じて結局自分が無駄な苦労を背負い込んでしまうことが多いことがようやくわかってきた。乗れるときはできるだけ時代の波に乗る方がよいのだろう。だからおせち料理はお気に入りのフレンチレストランに任せきりで、生前母がこだわって一家総出で買い出しに出かけた新巻鮭をはじめとした縁起物の各種料理は 大半スキップすることにした。
 年が明けていつもと変わらず仏壇の水と飯のお供えをしてお参りをした。もう習慣になっている。特に自分は信心深いわけではないけれど、洋風の家具調仏壇を居間に据えたものだから必然存在感があり、お参りが日課になるのに難しい理由は要しなかった。父は生家を継がなかったので、わが家の仏壇は当初両親の位牌だけだったが、父の代わりに家を継いだ気丈な叔母は、年老いて認知障害が生じたため私たちが支援することになった。しかしあっけなく最後は脳卒中で他界した。父の生家の仏壇終いの際に、ご先祖様の位牌は過去帳に変わってわが家の仏壇に一緒に祀ることになった。父は総勢6人の兄弟姉妹だったので、祖父母も併せると一挙に八尊の仏様が増えた。自分の両親を含めて十尊の仏様のうち私が知っているのは五尊のみで、あとは戒名と命日しかわからない方ばかりである。幼女のうちに他界した二人は赤痢などの伝染性疾患、20歳代で他界した二人は結核で亡くなったと聞いている。私の誕生をこよなく喜び愛でてくれた祖父は私が4歳の時交通事故で突然他界し、祖母と叔母と私の父のみが90歳代までの寿命を授かった。祖母は生前毎月夫の月命日には必ず庵主さんに訪問してもらって、読経後に食事を振る舞っていた。幼子を二人も伝染病で亡くしていたせいか祖母は生ものを一切口にしなかったし、厳格なベジタリアンでもあった。今風に言えばビーガンである。庵主さんの来られる日にはたいてい私の母に召集がかかり、母はひたすら野菜の天ぷらを揚げていた。母は喘息持ちで病気がちだったが、油酔いしながらも嫁の勤めと毎月頑張っていた。夜には仕事を終えた父や伯母も加わり食事を共にした。こうして月命日には生きし家族がみな集まり食卓を囲むのが明治、大正、昭和のしきたりだったのだかもしれない。何だか一族の絆を計る会食の場であった記憶がある。
 十尊の仏様をかかえる私はと言えば、仕事がら月命日はおろか祥月命日ですら休みが取れないので、購入したふりがな付きの般若心経を僧侶に代わって読経し、お供えと言っても多くは自分の食べたいものが多いので寿司だったりステーキだったりピザだったりと、祖母に叱咤されそうなものを供える程度である。何年もこれをやっているうちに般若心経は空で唱えることができるようになったし、会ったこともない仏さまの戒名と命日も自然と頭に入ってきた。当家の菩提寺の住職は本当に戒名のセンスがよく、多少誇張しているとは言えその仏様の生前の生き様をよく表現した戒名を付けてくださった。気象台に勤務していたという叔父など、「雲を耕し行くべき道を求める泉や嶽(山岳)を愛した男子」と言う表現が入っていて、会ったこともないが彼の人物像が容易に想像できた。
 しかし、過去帳には亡くなった日付しか記されていないので、何度も目にしていると「こんなうららかな桜咲く春の季節に・・・」とか「スイカを食べたりホタルを追いかけて楽しめたはずの夏の日に幼くして・・・・」とか、限りなく切ない思いが募ってきてしまった。位牌は墓石のミニチュア版のようなある意味硬くて厳格なイメージがあるが、過去帳は僧侶が手書きで記した一族の家族史のようで、会ったこともない遠い先祖様との交信ができる気がする。だが家族史としては没年のみでは悲しすぎるので、出生や婚姻などのめでたい年月日も是非とも必要とここ何年も感じていた。思いがけずぼやーっと過ごす年末年始だったので、ようやくそれを実行すべく以前何かの手続きに使用した戸籍謄本を引っ張り出して来て、各仏様の出生や婚姻入籍月日まで調べた。そしてそれぞれの没年月日の下にHBの鉛筆で誕生年月日を書き入れた。ちなみに私の両親の入籍日は12月、祖父母は1月であったことがわかり、長子の誕生日と合わせて考えると間髪なく子を授かる生きし日々の仏様たちのパッション(情熱)を感じられて思わずほくそ笑んでしまった。
 正月早々今年も辛く悲しい天災と人災で幕を開けることになったが、報道を観るにつれ同情を通り越して悲しみばかりが募って来てしまった。仏壇の向こうの異次元におられる仏様たちはどのように俯瞰されているのであろう。自分も確実に人生の後半に位置していることを実感するものの、まだまだ世のために出来る貢献があるはずだと襟を正して、明日のお参りはきちんとその意思を仏壇の十尊の仏様方にお伝えしようと感じた。不幸にも命を落とされた方々に心から哀悼の意を表したい。ご冥福をお祈りします。合掌。(2024年 1月)

 

2024-01-25 23:09:28

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ブルーモーメント

ブルーモーメント
不意に夜明け前の5時に眼が覚めてしまった。夜型人間の私においてはとても珍しいことだ。薄明(トワイライト)がゆっくりと朝の明るさへと窓越しに進んでいく。闇から夜明けへ、暗から明へ、音楽で言えばクレシェンドだ。日没後の薄暮と薄明とでは光度は同じなのかもしれないが、心理的には薄明の方が高揚感が勝ることがこれまでは多かった。しかし今日の場合は違った。疲れていたはずなのに意味もなく覚醒してしまったことへの不満が上乗せされたせいもあるが、昨日見た夕暮れがあまりに美しくて印象的だったから、今日の夜明けは一歩負けた感がある。
「ブルーモーメント(blue moment)」という事象があることを気象の本で読んだことがあった。天気の良い日没直後に、あたりの景色が極めて美しい青に染まる限られた時間(数分から十数分間)あると言う。幼い頃美しい夕焼けはさんざん見たが、そんなに美しい「青の時間」とはいったいどんなものなのかこの歳になってもいまひとつ想像が出来ずにいた。昨日妻の実家がある新潟県に墓参に出かけた帰りの高速道路でそれに遭遇した。海岸沿いを走っていた際に美しい夕日を横目で見ながら、ゆっくり停車して眺めようとしたがパーキングエリアにたどり着く間もなく日没は完成してしまった。少しがっかりしながら運転を続けていると、見たこともない深淵でかつ透明感のある青の景色が海の方向に展開した。ユーミンは夏の空を「空色」、秋の空を「水色」と唱ったが、そのどちらとも異なる宇宙観が漂う青で、それこそガガーリンが宇宙空間から眺めて「地球は青かった」と表した青に近いのではないかと想像する。運転中だったので助手席の妻に何枚も写真を撮ってもらったが、あの青の深度と透明感は反映できなかった。妻も助手席に座っていたので、実際の青の世界を、窓の形に切り取られた一部分しか見えなかったことだろう。
そう言えば私たち夫婦はそろって空を見るのが好きである。国際宇宙ステーション(ISS)の軌道をインターネットで検索しては頭上を通過する時間に合わせて外に出てそれを眺めたり、何度か訪れたハワイ島マウナケア山から眺めた満天の星を思い出しながらYou Tubeですばる望遠鏡にある定点カメラの星空映像を観たりしている。だからすっかりドラマやバラエティーのテレビ番組を観なくなった。毎日の診療で多くの方々の疾患を診察するに当たり、背後に見え隠れするその方の人生をくみ取ったり配慮しなくてはならない。だから人生ドラマは生でたくさん遭遇することになる。また、さまざまな診療情報を得たり記録に残すのは全てコンピューターである。一日少なくとも8時間はそうした人との関わりをこなし、12〜13時間はコンピューターに向かっているので、大脳の前頭前野がフル稼働状態になってしまう。ヒトの脳には、デフォルトモードネットワークと言ってコンピューターで言うとsleepの時間が必須と言われている。この時間帯にヒトは記憶を整理したり将来のシミュレーションをすると言われている。だから私たち夫婦にとってのデフォルトモードネットワークがすなわち空を眺めている時間なのだと思われる。それにしても昨日の「ブルーモーメント(blue moment)」を停車してじっくり見れなかったのは悔やまれる。 
けっきょく昨日は二箇所の墓参をした。一箇所は山の中腹の林の中で、晩夏の蝉が懸命に鳴いていた。人影もほとんどなく、苔むした墓石に花を手向けて語りかけた。もう一箇所は海辺の寺で、木漏れ日が眩しく暑かったが、木立が漂わせるフィトンチッドとマイナスイオンでむしろ心地よさを覚えた。生きていくと言うことは様々な喪失に遭遇してそれから癒えていく繰り返しであるが、重ねていくと墓参の意味も理解できてくる。若い頃墓参りは正直なところ義務感で行う行事と捉えていた。しかし今は異なってきていることに自分ながら驚く。歳をとったと言うことだろうか。もし故人の魂が次元を超越して存在するのなら、きっと昨日垣間見たブルーモーメントは、その魂たちの返事だったのかも知れない。(2023年8月下旬)
 

2023-08-21 12:17:27

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諏訪とわたし

諏訪とわたし
 諏訪湖の対岸の西の山に太陽がうすづき(春き)、少し毛羽立ったような厳冬の暗い水面に一筋の輝く光の廊下ができた。ダージリンを飲みながら足を投げ出して、なじみの宿の窓からぼんやりと眺める。やがて陽は隠れ、それでも余韻を残すようにあたりはしばらく闇から逃れていた。窓越しに体が急に冷えてきた気がして温泉に入ることにした。いつもはシャワーで済ましてあまり湯船に漬かる習慣がない私にしては、ずいぶんの長湯をした。暮れなずむ諏訪湖の景色を見ながら日常の疲労と緊張を溶かすように湯船に身を預けた。上気して風呂から上がった頃には、湖は空のランプブラック*と区別がつかなくなり、この二つを分けるように対岸の街並みの灯りが瞬いた。普段では考えられないようなゆったりした時間が訪れては去って行く。[*:ランプについた煤のような黒]
 何年か前から正月はこの定宿で過ごすことにしている。普段読む間がない趣味の本を読んだり、温泉に漬かったり、ぼんやりしたり微睡んだりするが、テレビは一切観ないし、観光もしないというポリシーは守り続けている。家にいると年賀状の心配やら、初詣の算段やらで、結局休んだ気がしないまま、夜はおめでたいテレビ番組に時間は費やされ、貴重な休暇がベルトコンベアの上に載った品物のように流れ去ってしまう。だから少々贅沢でも正月は温泉宿で過ごすとに決めた。この時期の諏訪湖は特別目立ったアトラクションもないし、都会人が好むような洗練された遊興施設もない。白鳥の形をした平凡な遊覧船と足こぎボートが寂しそうに繋留されている程度である。とりわけ惹きつけられる祭事もなければ見所もない。だから寒々とした湖面を眺めながら、自分たちだけの珠玉の時間を手繰ることができる。
 諏訪は私が大学時代に車の免許を取ってから両親と姉を連れて訪れたのが最初で、諏訪大社でお参りをしたり、名物の塩羊羹や大社せんべいを買って帰るデイトリップを何回かした記憶がある。長野県は南北に長く、文化圏が北部、中部、南部で異なっているので、県内を旅行するだけでも新鮮な旅行気分を味わえる。諏訪市はちょうどよい距離にあったこともあるが、私の実家の所在地が長野市の新諏訪町と言う町名であったので、なじみやすかったのかもしれない。新諏訪町の鎮守は諏訪神社と言い、後から知ったことだが御祭神は諏訪大社と同じ建御名方命(たけみなかたのみこと)であった。思えば初めて大学進学で新潟市を訪れた際に、新潟に着いたら頼っていくようにと知人から紹介された方も、訪ねてみると医学部のある旭町通に鎮座する「(寄居」諏訪神社」の宮司さんであった。その神社の御祭神も言わずもがな建御名方命であった。大学時代に知り合って結婚に至った妻の母の生家は、新潟県柏崎市の諏訪町という地名にあった。ただこの町名の由来はよくわからない。そして月日は流れ、土地選びに数年の歳月と苦労を要した現在のクリニックの開業地は廣田神社のお膝元で、この神社の御祭神も建御名方命であった。博学な患者さんが、長野県内の神社の祭神は武田信玄の命で建御名方命を主神に変更させられたケースが圧倒的に多いのだと教えてくださったが、武田信玄とは敵対していた上杉謙信のお膝元新潟でも自分と「諏訪」との結びつきがあったことを思うと、もう自分は諏訪大社や建御名方命を崇めるのは必然の気がしてきた。そんなわけで正月の束の間の安息を、「素(す)」で過ごす場所として諏訪を選んだ経緯がある。
 宿をチェックアウトしてから諏訪大社上社に詣でた。COVID-19 がパンデミックになって3回目の正月で人々も分散参拝に慣れたのか、思ったほどの人手ではなかったが、過去2年に比べたら大分賑やかにはなってきていた。私たちは参拝を済ますと毎年定位置に陣取るだるま屋の露天商で2つのだるまを購入した。値切り交渉はあまり得意な方ではないが、「もう少し安くならない?」と言ってみたら500円まけてくれた。あっさりその言い値でオーケーしたら、がたいのいいお兄さんは「ありがとう、2つも買ってくれたから・・・」と礼を言って、干支の根付けを記念にくれた。彼の雰囲気からはとても想像つかないような可愛らしいウサギの根付けであった。ウサギと言えば建御名方命の御尊父さまが「因幡の白ウサギ」の有名な逸話を残している大国主命である。ひょっとするとあのがたいのいいだるま売りのお兄さんは建御名方命の遠い遠い末裔なのかもしれない。大社せんべいと塩羊羹を土産に購入して、私たちは家路にについた。こうして今年も、縁のある諏訪の地、建御名方命のお膝元で、束の間の尊いやすらぎの時間を授かり、今年1年のための初回充電を完了させた。年々充電がすぐ切れてしまうようになって来て、魂のバッテリー性能が低下しているのかもしれない。しかし魂はすなわち神経活動。神経は生まれてこの方同一の細胞が生涯を共にして、余裕で120年間の寿命を持つと脳化学では言われている。つまり性能が落ちているのではなく、性能を保つメンテナンスの術が悪いのかもしれない。確かに魂を磨くことを、いや、磨く術を忘れかけているような気がする。(2023年正月)
 

2023-02-05 18:34:58

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緑への思いと冬の花火

緑への思いと冬の花火
 1年の中で5月が最も好きな理由の一番は視覚的な理由で、屋外に出たなりに私を包む景色の大半を占める色、それが緑色(Green)で、それこそ自分が最も愛する色だからである。しかし、緑にも様々あって、季節毎に少しずつ変遷していくのは実に風情がある。生まれてからこのかた数十年も緑の色とひとくくりにして、その微妙なバリエーションを漫然と感受してきたが、スマホで色を判別できるアプリを見つけてからというもの、景色を撮りまくっては色の判別に興じている。
今年の5月1日は日曜日だったので、春の山里に愛車を駆って出かけた記録がPCの写真アルバムに残っている。小鍋の善光寺温泉跡を右手に見て葛山落合神社や御射山神社を経由して県道戸隠線に合流するルートが私のお気に入りのドライブコースで、そこからりんご畑越しに佇むひとかたまりの山村と、遠くに抱(いだ)くように連なる山々が私の最愛の心象風景に近いものだと思っている。自分の心が疲れ切っている時にいつも訪れる場所で、礫岩(れきがん)のように固化しかけた魂がホイップクリームのレベルまで甘く溶けてリラックスする。その日の山肌の景色はまるでパッチワークのようで、常緑樹の“ボトルグリーン”(ごく暗い緑)をバックに、各所で背伸びするように若葉の“萌黄色”(もえぎ:明るい黄緑)、“シーグリーン”(つよい黄緑)、さらには“抹茶色”(やわらかい黄緑)がそれぞれ自己主張していた。植林された常緑樹の山林はモノトーンで色の統一性があるので、整然と清涼で心を浄化するようなある種きりりとした風圧を送ってくる。しかし今日の景色のように広葉樹の若葉たちがそれぞれの種や個体を伸びやかに主張して、それぞれの異なる緑で自己表現するパッチワークは、気持ちを前向きにしてくれるし、見ているだけで心がウキウキ引き込まれる陰圧を感ずる。
5月後半の緑たちも実に潤しい。若葉は成長し葉の密度が増して、“アイビーグリーン”(暗い黄緑)、“リーフグリーン”(強い黄緑)、“オリーブグリーン”(暗い灰みの黄緑)が主流となる。そしてこの頃の空は、晴れていると”つゆくさ色“(あざやかな青)であることが多く、緑との相性は私の中では随一だと思う。この時期の昼下がりに大座法師池を散策すると、手前に鏡のような湖水、対岸にアイビーグリーンの林、その上に銀白の積雲が連なり、中でも勢いがいいのは入道雲のなりかけている。そこからつゆくさ色の青空を挟んで絵筆でピンとはじいたような上層雲の巻雲がアクセントとなる。その日の雲の物語のあとがきを表しているように見えるフォトもアルバムに記録されている。こうした景色を前に、私は大きく長い息を吐いて、その倍の量のフィトンチッド(リフレッシュ効果などの森林浴効果をもたらす森林のかおり)を含んだ空気を胸いっぱいに吸い込んだと思う。
 こうして5月の緑を思い、文章をしたためている今、外では雨の中えびす講の花火が上がっている。そう、今日は勤労感謝の休日で3年ぶりの花火大会だ。先ほど傘をさしてさわりの部分を短時間だけ鑑賞してきた。巧みを懲らした見事な花火だったが、空は涙をポタポタ落として泣いている。軽症化してきたとは言えCOVID-19 が第8波に突入して、マスコミは花火の中継と並行して患者罹患数が増えた増えたと不安を拡散している。世界では、わがままなろくでなしの独裁者たちが、勝手放題、悲劇的なカタストロフィーに人々を巻き込もうとしている。こんな世界情勢や心理背景で雨が降りしきる中の花火を観るのは重すぎる。かつては隣人を誘いおでんを炊きながら花火を楽しんだわが家の前の道路は冷たく黒く濡れていて誰も居ない。だから私はiPodのノイズキャンセリングを作働させて、J.S.バッハの無伴奏チェロを聞きながらこれを書いている。5月の緑と無伴奏は温ったかご飯とビスケット位に合わないけれど、自分の中の心模様、そうちょっとしたカオスを表しているようだ。
 と、妻が花火の終焉を一緒に見ようと誘った。渋々ダウンジャケットを羽織りニットの帽子を被って外に出てみた。雨はいつしか上がり、夜空一面をビタミンカラーの花火が覆い尽くしていた。従来の祭り心を煽るようなたたみかけのスターマインはなく、一つ一つ噛みしめるように丁寧なアートを空に打ち上げ、その間隔が次第に狭まったと思ったら、ふいに低い位置に横長の花壇に咲く背のそろったガーベラのような花火が一斉に花開き、一呼吸置いてその上空をノスタルジックなモノトーンの数え切れない程たくさんの大輪が埋め尽くした。花火師たちの「精一杯頑張ろう」と言う、込められたメッセージを強く感じた。久しぶりに見た空いっぱいの元気だった。自虐的に無伴奏を聞いていた私のねじれた気持ちは払い腰で見事に払われて、前向きな意欲が頭をもたげた。さあ、来年の5月の緑がより気持ちよく味わえるようにと心に念じながらこの文章を終わろう。
(2022年11月23日 えびす講花火の夜)
 

2022-11-24 22:27:22

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真夏の憂鬱と入道雲

真夏の憂鬱と入道雲
 真夏の一日の診療が終わった。身も心も疲れて「元気」から遠ざかった人たちがたくさん受診された。合間にCOVID-19 のワクチン接種もした。一筋の日射しも入らぬビルの谷間をひたすら歩いているような、そんな閉ざされた思いを世界中のみんなが感じている。それでも暑くじりじりと焦がすような日射しは何食わぬ顔で地上に放射し続け、夏は普通に過ぎていく。30℃を超えた昼間が終焉に近づき、夕方が来た。一息つこうと窓に近づき恐る恐る開けてみると、案の定熱風が吹き込んできた。6時半とは言え、夏の日は長い。あたりはまだ昼下がりの延長線上。クリニックの正面玄関から出てみると、コンクリートのアプローチ、駐車場のアスファルトが昼間蓄えた太陽熱をムンムンと放熱している。一日中空調の中にどっぷり浸かって身体表面だけ冷え切っていたので、その異様なほどに高温の放射熱が不思議にも一瞬だけ心地よく感じた。しかしそれも束の間、1分もすると玉の汗が吹き出てきた。少年だった頃は空調などなかったので、やはり夏は半端なく暑かった。だが当時の暑さはどこか透明感があったように思う。汗もさらさらで乾いたあとに清涼感が残る汗だった。最近の暑さは、大型トラックやバスのエンジンフードの脇に立った時に味わうような、濁っていて、押しつけられるような圧迫感を伴う暑さのように感ずる。
山並みに眼をやると、はるか上空に沸き立つように背伸びする見事な入道雲がいくつも成長していた。日中の日射しの強さの成果を主張しているようだ。東側の入道雲は強い上昇から既に一転崩れて下降へと変わり、やけに冷たく強めのダウンバーストを吹き付けてきた。窓越しに木々が揺さぶられ、窓ガラスの小刻みな振動が風の強さを伝えてくれる。夕立が来る気配だ。遠くで雷鳴も聞こえ始めた。そう言えば母は雷が大の苦手で、大人げもなく怖がったものだ。だから姉や私が幼かった頃、「雷様さまに臍を取られる」と言うお決まりの迷信を説いて聞かせ、雷鳴が近づくやいなや私たちを巻き込んで押し入れにこもったものだ。エアコンもない部屋の真夏の押し入れで3人身を寄せ合ったわけだが、暑さに閉口すると言うよりは、冒険ごっこみたいな少々のわくわく感と、本気で怖がる母の子供っぽい一面を見て子供ながらにシンパシーを感じたものである。しかしほどなく少年へと成長した私は虫取りと魚釣りに夢中になったので、もう母の押し入れ籠もりには付き合わなくなった。そして、夕立は魚釣りと虫取りを台無しにするので、それを引き起こす入道雲は嫌いになっていった。少年時代も終わり虫取りもしなくなると思春期に入り、もう入道雲はどうとも思わなくなっていった。
ところがここ十数年私は一転して入道雲が不思議に焦がれるほど好きになった。いわゆるゲリラ豪雨や熾烈な災害をもたらすスーパーセル(巨大積乱雲)ではなく、日本サイズというか、夏の日の締めくくりの夕立をもたらす程度の入道雲が私の好む積乱雲である。しばらく窓から眺めていると、雲は秒単位で形を変え、太陽の光を真っ向から受けた先端部分は限りなく白く輝く。その白さは色彩図鑑の白の定義をはるか超越した、マグネシウムが燃焼するときの閃光のような白で、破格の光量を浴びせてくる太陽に堂々と立ち向かう勇者の横顔のようだ。見ている者のしぼんだ心を叱咤激励してくれる。あの強烈に白く輝く先端には、どんな世界があるのだろう? 別の宇宙空間への入り口があるのかも知れないと思うほど神秘なインターフェースだ。その場に立ってみたい気もするが、厳かすぎて恐れ多い。
今日の診療では、高齢者に交じって数人の真っ黒に日焼けした元気な十代の子がいて、その張りのあるきれいな腕にワクチンを打った。施注しながら何故かその子らからすごく貴重なエネルギーをもらったような気がした。こんな毎日の中で自分の中で若さがすっかりしぼみかけていたから、成長盛りのはち切れんばかりの無邪気な元気や勢いに激励してもらったのかも知れない。入道雲を見た時と似ている爽快感を覚えた。
とにかくCOVID-19 のパンデミックで社会も人の心も狭い容器の中で真空密閉されたような閉塞感が支配する日々の中で、こうした底抜けに力強くプラスのエネルギーを感じる瞬間がある。ムクムクと上昇するエネルギッシュで白く巨大な入道雲の痛快さが、少し老いて元気のない今の自分には一番のリバイタライザー(元気や生気を復活させるもの)なのかも知れない。早くこの夏の風物詩である入道雲を、リバイタライザーとしてではなく自然界の荘厳な一現象として、普通に見られる日が来ると良いとつくづく思う。フェイスマスクなど取り去って、普通に語り合ったり笑い合ったりして、夏の祭りや花火を集って楽しめる日が来ると良いと心から願う。
(真夏日の診療の後で。2022年8月)
 

2022-11-24 22:25:42

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ドライブの勧め

ドライブの勧め
  久しぶりに見る木々は、季節を象徴するように紅や黄、ゴールドのモザイクで秋色へと衣替えした。公園のベンチでTully’sからテイクアウトしたコーヒーと、妻お気に入りのパン屋で買ったBLTとベーグルサンドがブランチのメニューである。10月は地域の講演会の講師依頼があって、その準備のため休日は外出もせずに終日コンピューターに向かって過ごすことが多かった。平日は帰宅が夜遅いので、朝の通勤の時にしか季節の変化を眼にすることができない。楓の紅やイチョウのゴールドが、鮮やかすぎて軽く眼に痛みすら覚える。でもそれは心地よい痛みで、コロナコロナで停滞した感性のせせらぎを浄化し、脳裏に澱んだ不安や憤懣を払拭していく。
ブランチを済ますと、久しぶりに少し遠くまでドライブしようと言うことになった。目的地は特に決まっていない。いつもそうであるように、私たちのドライブはまず雲のない空が澄んでいる方角に向かって走り出す。窓外の風景やその日の気分で候補地が絞られ、過去の記憶の後押しで目的地が決まっていく。
   思い返せば私はおそらく標準よりかなり長い時間をドライブに費やしてきた方だと思う。大学は新潟市にあり、日本海に面した海の気候は長野育ちの人間にはとてもきびしいものだったので、車は必需品と言ってよかった。裕福とはとても言えない家庭だったが、両親は大学生のわがまま息子のために中古のカローラクーペを買ってくれた。思いがけず手にしたカローラは実によく仕事した。通学はもちろん、大学から18kmも離れた好条件の家庭教師のアルバイトにもありつけた。帰郷すれば家族を連れてあちこち遠出のドライブに出かけたり温泉旅行にも行くことができた。もちろん車好きの仲間と夜ごとドライブに出かけた経験は、私の大学生活の思い出のトップランクに位置している。
    妻とは大学時代に知り合ったが、二人で過ごす時はいつも車が欠かせなかった。妻もドライブ好きで、天気がよければ海を見に、新緑がきれいならば山に、星がまたたく夜ならば弥彦山の頂上に、霧深かければベールを被った神秘な街並みを探索しに、見知らぬ道を探してドライブに出かけた。本当に信じられないほど様々なところへ車で出かけたものだ。学生時代は体力も充実、時間はとてもフレックスだったので、近隣県であればほとんど躊躇無くデイトリップに出かけることができた。山形県のサクランボ狩り、紅葉を見に阿賀野川沿いに福島の会津若松まで、暑ければ志賀高原へ涼を取りに。夏ともなれば延々と続く海岸道路を流しながら、好きなビーチで海水浴を楽しんだ。特にお気に入りだったのが、日本百名道のひとつでもある越後七浦シーサイドラインで、昼間は海の絶景と、夜は明かりを灯して漁をする漁船たちが遠く波間に揺れて神秘的であった。きっと走行距離はプロドライバー並みだったと思う。
  それだけ走れば運転技術は必然向上するし、様々な場面に遭遇するので経験値も上がってくる。道は自分だけのものではなく、他車の自由を無視したりするとこっぴどくしかられる経験もした。必然自分と他車との関係性をできるだけ瞬時に理解して、お互いが気持ちよく走れる関係性を保つ、言わば「車交際術」が身体にたたき込まれた。つまり時間軸を加えた4次元の中で自車の位置や振る舞いを客観的に捉える能力が育くまれた。それだけに昨今の交通マナーにおけるパラダイムシフトには大きな戸惑いを覚える。巨視的な、はやり言葉で言えば「俯瞰的な(ふかんてきな)」視野で見て運転している人が少なく、総じて自分が優先、他車への気配りは欠け、ひどいときはスマホやテレビを見ながら蛇行運転をしている人もいる。いらいらした後続車をたくさん従え、のんびりマイペースで追い越し車線を走行している車が多く見かけるように思う。
  交通マナーと言えば強く感銘を受けたのはカナダを車で旅行したときのことであった。都心ではなく観光地であったせいもあるが、ドライバーたちは皆穏やかでジェントル、それでいて他車の挙動には極めて敏感で、少しでも自分より速度が速い車が後方から近づいてくると路肩に寄って減速、先行させてくれるのだ。日本では考えられないほど長い工事用信号で停車すると、皆エンジンを切り、外に出てストレッチをしたり景色を眺めたりして思い思いに待ち時間を過ごすのだ。こうした環境ではクラクションで威嚇したり、まくり運転などは必然的に生じようがない。車だけではない。空港や駅で並んで順番を待つ時などでも、できるだけ他人の進路を妨害することを避け、お互い適度な距離を保てるように視線で語りかけたり声をかけたりして上手に調整するのだ。背中に眼があるのではないかと思われるほどその敏感さは驚くほどで、おそらく幼少の頃より他人との距離感の保ち方や他人の自由や意思を侵害しない関係性について、徹底的にしつけや教育がなされるのだと感じた。様々な思想や宗教の多民族が集まる国ならではの常識であり生き方なのかもしれない。
  今日のドライブのBGMは最近お気に入りのギター曲集を選んだ。ゆったりとしたバッハのカンタータの演奏にマッチして、車は真田町の山間のたんぼ道を走っている。林檎の実は赤や黄色にたわわに実り、その背後の山は光合成を終えた木々を擁して、晩秋の澄み切った青の空にもたれかかって一休みしているかに見える。私たちの心も大あくびしたので、車を止めて林檎の実をバックにスナップ写真を撮った。今日のドライブも100点満点の出来とばかりに特上の秋のスナップが撮れた。何歳までこうして二人でドライブを楽しめるだろうかと少しの不安と、大きな期待と夢を心に帰路に着いた。(2020年11月8日)

2021-01-16 19:43:00

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雌のカブトムシ

雌のカブトムシ
 久しぶりにきっぱりとした夏の日。長い梅雨がようやく明けて初めての土日、クリニックは二連休だ。普段は屋内ばかりに居るので、夏の日射しは眩しすぎるくらいに明るい。頭上から容赦なく照りつける盛夏の太陽は、木々の葉の一つ一つまでくっきりとしたシルエットを地面に投影して、夏模様を描画していく。柏崎で親類の法要に参列後、海岸からほど遠からぬ寺院へ墓参に来た。街並みから隔離された墓地の木立は昆虫たちの天国で、蝉時雨が僧侶の読経を伴奏に変えた。線香を上げる間も、キアゲハ、そして次はカラスアゲハと、広いストライドで駆け抜けるアスリートのように、蝶が優雅に舞っていく。少年の頃から無類の昆虫好きだった私には、何と心地よい情景だろう。私の目の前のランウェイを、それぞれの個性を主張して通り過ぎていく昆虫たちを見ていたら、子供だった頃の夏へのノスタルジアのドアが開いた。
 少年時代の私はカブトムシとクワガタにほとんどの夏を捧げたと言っても過言ではない。夏休みには実家に程近い頼朝山へ毎日昆虫採集に出かけた。頼朝山は、豊富な甲虫類を授かることができる、私にとっては聖なる山であった。毎日1回、時には2回出かけたので、虫が居る木は隅から隅まで知り尽くしていた。採った虫たちは飼育箱でだいじに飼って、暇さえあればその生態を眺めて満足していたものだ。
 カブトムシと言えば、母が亡くなった夜、不思議なことが起こった。葬儀の段取りなどで疲れ果てた私は、深夜夕食を求めて近所のコンビニに立ち寄った。買い物を済ませて出ようとしたとき、入り口のマットの上に仰向けでもがいているカブトムシを見つけた。手に取ると立派な雌のカブトムシであった。コンビニの灯りに吸い寄せられて飛来したのだろう。その瞬間、これは母だと直感した。母は私が少年時代夢中だったカブトムシに姿を変えて現れたのだと。脳卒中で体が不自由だった母は、遠く神戸に嫁いだ姉が介護をしたいので一時期あずかりたいと申し出てくれて、姉の家で療養していたが、そこで次々と苦難の合併症に見まわれ病態が悪化した。結局長野に戻ることができなくなり、遠く故郷を離れて永眠した。そんな母の魂はさぞかし帰郷したかっただろうと想像できる。私はそのカブトムシを取り上げて服の胸にとまらせた。そして、抱きかかえるようにして家まで連れて帰った。不思議にカブトムシは私の胸元から逃げようともせずしっかりしがみついたままだった。小一時間カブトムシはカーテンの上でじっとしていたが、就床直前に庭の沙羅の木にとまらせてあげた。翌朝確かめると、カブトムシの姿は既にいなくなっていた。沙羅双樹は、お釈迦様が入滅した場所に生えていたとされる木である。母の魂も無事に旅立ったのかもしれない。
 その時以来昆虫は亡くなった人の化身という私の思い込みが定着した。モンシロチョウを見れば自分をこよなく愛してくれた祖父だと思い込み、キアゲハを見れば叔母だと感じた。母がカブトムシに化身したのは一度きりで、その後はカラスアゲハやクロアゲハとなってことある毎によく現れた。頻繁には現れないけれど風に乗ってふいに訪れるオニヤンマやギンヤンマは父だと思う。
 こうして私は昆虫を見ては故人を想う。故人の様々なエピソードやシーンをニューロンのネットワーク、つまりセル・アセンブリ(細胞集成体)をフル稼働して再生する。何度も何度も。しかし、このセル・アセンブリも私の脳の活動が健康である前提のもとでしか存在し得ない。開業して6年、初診時は軽度認知障害もしくは軽い認知症だった患者さんたちの海馬は月日と共に菲薄化し、大切なセル・アセンブリが無情にも確実に奪われていく。その様を日々観察していると、やるせない想いが私を満たす。かけがえのない大切なニューロンの活動を何とか健康に保つすべはないものかと、歯がゆい思いと憤怒に似た感情が日々私にジャブを繰り出してくる。そもそも人の生涯は一度きりしか上映されない映画のようなものだから、観た者がきちんと脳裏で再生して、そして何らかの形で記録に残すことが、その人がどのように生きたかの証となる。自分の大切な人のことはこうして随筆などの文章にして、そして患者さんのことは診療録の中に、せっせと労を惜しまず記録していかなければならないと痛感する。
 お盆もすぎ、あのうだるような暑さはあっさりと去った。今日は母の月命日だ。ふと窓外を黒い影がよぎったので窓に近づいてみると、見事なカラスアゲハが楽しげに庭を舞っていた。間違いなく母だろう。私にとっての昆虫は、いまは亡き大切な人々を回想するための使者なのかもしれない。
(2019年8月)
 

2019-08-25 22:37:56

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ヤマトシジミ

ヤマトシジミ
  
IMG_4626 (1).jpg 季節外れの台風が、南の夏を連れて日本海を北東へとゆっくり通過していった。連なる高峰(こうほう)に守られた長野盆地にしては、珍しくやや強めの風が吹いて、秋の中盤を謳歌する木々や草花が揺れた。このノスタルジックな夏っぽい風が去ると、今度は打って変わって秋が深まった。久しぶりに晴れ上がった肌寒い昼下がり、車に乗ろうとしたらグレイの羽が折れて変形した小灰蝶(シジミ蝶)が地面に横たわっているのが目に入った。ヤマトシジミだ。そっと羽をつまんで拾い上げるとまだ息があり、羽ばたこうともがいた。8月終わり頃から、出勤時にほぼ毎日飛んで来ていたのに、ここしばらく見かけなかったので何だか懐かしささえ覚えた。
 ちょうどヤマトシジミを気にとめるようになった少し前に愛犬を失った。実によくできたかわいい犬だった。俊敏でよく駆け回る様を見て、義父が「駿」と名付けた。男の子だったので幼犬の頃はやんちゃだったが、成犬になってからは素直で聞き分けがよく、性格がまっすぐで純粋、やきもちをやいたり拗(す)ねたりなど、変に人間ぽいところは一切なく潔(いさぎよ)かった。何よりありがたかったのは同じドッグフードを文句ひとつ言わず毎日喜んで食べたことだった。少々体調不良で元気が今ひとつでも、与えるご飯はいつも完食した。だからすぐに元気になった。どこに行くにも一緒に連れて出かけた。連れて行けない時は、朝から晩まで家を留守にしても、暗い部屋でじっと寝て待っていて、私たちが帰宅すると飛び跳ねて喜ぶ子だった。海外旅行に行く時は友人宅に預けたが、その家にもすぐに馴染んで、我が家の犬のように可愛がっていただいた。物怖じしない子でテレビ出演も3回した。アニマルセラピーで、少し乱暴な子に引っ張り回されても文句ひとつ言わずに従った。生涯で人を噛んだことは一度もなかった。
 クリニックを開院してからは必然終日院長室で過ごした。朝出勤してから診療終了するまでの長い時間をただひたすら院長室で寝て待った。昼時にはクリニックのスタッフからおやつをもらえるのを何よりの楽しみにしていた。院長室の私の机の下がお気に入りで、仕事に区切りがついて院長室に戻ると「ごくろうさん」と云わんばかりにのっそりと出てきたものだった。
 晩年は歩くことが困難で立ち上がることもできなくなった。しかし食欲は落ちることなく、決まって朝はヨーグルトとミルク、昼はスタッフの膝枕でフードを口まで運んでもらい介助されながらほぼ完食した。夜は食べたり食べなかったりであったが、私が栄養不足と判断した際は栄養ゼリーを注射器で口に流し込んであげた。最初多少は抵抗したが、その後はそういうものだと観念したのか、ごくごくと上手にプロテインやビタミンゼリーを嚥下した。そんな寝たきりの老犬になっても駿は実にイケメンで、若い精悍さから転じて丸みを帯びておっとりした愛くるしさへと脱皮したようだった。紛れもないアイドルの座はキープし続けた。
 8月に入って突然痙攣発作が止まらなくなった。原因はわからなかったが、痙攣止めの注射を驚くほど大量に使わないと止まらなかった。人間ならばとうに呼吸が止まっておかしくないと思いながら私は痙攣の度に注射を繰り返した。しかしとうとう恐れていた肺炎を併発した。最後の日は、かねてから自分の定位置だったソファーに力なく横たわり、痰が絡まり呼吸が苦しそうだった。電話で問い合わせたら動物病院で喀痰を吸引してくれるというので、さあ行こうと抱き上げた。抱っこされるのがあまり好きでなかった駿は、抱いた際に身を預けてくることはめったになかったが、その時は駿の顔が私の頬にピタッとくっついた。それが最後の力ない頬ずりだったようで、車のシートに横たえたときにはすでに事切れていた。
 駿が去ってから気違いみたいに暑い日々が続き、心の中の海が枯れていき、底には尖って辛い塩の結晶ができた。悲しさと寂しさは日ごとに募った。心がよれよれのしわだらけになっていた頃、毎朝重い気持ちで玄関を開けると必ず小灰蝶がやってきた。自家用車に乗るまでのほんの十数歩の間に私の周囲を戯れるように舞った。何度か見ているうちに、これは駿の化身ではないかと思うようになった。雨の日以外は本当に会わぬ日がないくらいに蝶はやってきた。駿の化身という直感は確信へと変わった。来る日も来る日も会うたびにエネルギーをもらった。それから雨の日が続いて、台風が来たりで悪天候が続き、やがてメランポジウムは枯れだして、ヤマトシジミに会う機会もめっきり減った。駿の化身に会えないことでまた一層密度を増した寂寞が私たち夫婦をすっぽりと包むようになった。
 ヤマトシジミは羽化してから2週間ほどしか生きないらしいので、私の足元に瀕死の状態で横たわっていた蝶は8月から見ていた蝶と同一ではなく、おそらく何代目かの蝶かもしれない。私の手のひらで最後の力を振り絞ってうごめく蝶を家の中に持ち帰り、手向けたばかりの仏壇の黄色の菊の花弁に乗せてあげた。するとヤマトシジミはシャキッと花弁に留まってとうとう一晩過ごした。しかし翌日には少し元気になったのか菊の花から何度も飛び立とうとして落下した。でも羽は折れて曲がったままだ。その仕草を見ているうちに、今度こそお別れだと蝶が主張しているように思えた。だからヤマトシジミをそっと捕まえ、玄関のメランポジウムのプランターに離してあげた。花は既に枯れて茎が茶筅のように残っている茂みの中へと蝶の姿は消えてついに見えなくなった。 「さようなら駿、ありがとう」と、心の中でつぶやいた。
(20018年10下旬)
 

2018-11-11 22:44:56

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