〒381-2214 長野県長野市稲里町田牧1310-5
ブルーモーメント 不意に夜明け前の5時に眼が覚めてしまった。夜型人間の私においてはとても珍しいことだ。薄明(トワイライト)がゆっくりと朝の明るさへと窓越しに進んでいく。闇から夜明けへ、暗から明へ、音楽で言えばクレシェンドだ。日没後の薄暮と薄明とでは光度は同じなのかもしれないが、心理的には薄明の方が高揚感が勝ることがこれまでは多かった。しかし今日の場合は違った。疲れていたはずなのに意味もなく覚醒してしまったことへの不満が上乗せされたせいもあるが、昨日見た夕暮れがあまりに美しくて印象的だったから、今日の夜明けは一歩負けた感がある。 「ブルーモーメント(blue moment)」という事象があることを気象の本で読んだことがあった。天気の良い日没直後に、あたりの景色が極めて美しい青に染まる限られた時間(数分から十数分間)あると言う。幼い頃美しい夕焼けはさんざん見たが、そんなに美しい「青の時間」とはいったいどんなものなのかこの歳になってもいまひとつ想像が出来ずにいた。昨日妻の実家がある新潟県に墓参に出かけた帰りの高速道路でそれに遭遇した。海岸沿いを走っていた際に美しい夕日を横目で見ながら、ゆっくり停車して眺めようとしたがパーキングエリアにたどり着く間もなく日没は完成してしまった。少しがっかりしながら運転を続けていると、見たこともない深淵でかつ透明感のある青の景色が海の方向に展開した。ユーミンは夏の空を「空色」、秋の空を「水色」と唱ったが、そのどちらとも異なる宇宙観が漂う青で、それこそガガーリンが宇宙空間から眺めて「地球は青かった」と表した青に近いのではないかと想像する。運転中だったので助手席の妻に何枚も写真を撮ってもらったが、あの青の深度と透明感は反映できなかった。妻も助手席に座っていたので、実際の青の世界を、窓の形に切り取られた一部分しか見えなかったことだろう。 そう言えば私たち夫婦はそろって空を見るのが好きである。国際宇宙ステーション(ISS)の軌道をインターネットで検索しては頭上を通過する時間に合わせて外に出てそれを眺めたり、何度か訪れたハワイ島マウナケア山から眺めた満天の星を思い出しながらYou Tubeですばる望遠鏡にある定点カメラの星空映像を観たりしている。だからすっかりドラマやバラエティーのテレビ番組を観なくなった。毎日の診療で多くの方々の疾患を診察するに当たり、背後に見え隠れするその方の人生をくみ取ったり配慮しなくてはならない。だから人生ドラマは生でたくさん遭遇することになる。また、さまざまな診療情報を得たり記録に残すのは全てコンピューターである。一日少なくとも8時間はそうした人との関わりをこなし、12〜13時間はコンピューターに向かっているので、大脳の前頭前野がフル稼働状態になってしまう。ヒトの脳には、デフォルトモードネットワークと言ってコンピューターで言うとsleepの時間が必須と言われている。この時間帯にヒトは記憶を整理したり将来のシミュレーションをすると言われている。だから私たち夫婦にとってのデフォルトモードネットワークがすなわち空を眺めている時間なのだと思われる。それにしても昨日の「ブルーモーメント(blue moment)」を停車してじっくり見れなかったのは悔やまれる。 けっきょく昨日は二箇所の墓参をした。一箇所は山の中腹の林の中で、晩夏の蝉が懸命に鳴いていた。人影もほとんどなく、苔むした墓石に花を手向けて語りかけた。もう一箇所は海辺の寺で、木漏れ日が眩しく暑かったが、木立が漂わせるフィトンチッドとマイナスイオンでむしろ心地よさを覚えた。生きていくと言うことは様々な喪失に遭遇してそれから癒えていく繰り返しであるが、重ねていくと墓参の意味も理解できてくる。若い頃墓参りは正直なところ義務感で行う行事と捉えていた。しかし今は異なってきていることに自分ながら驚く。歳をとったと言うことだろうか。もし故人の魂が次元を超越して存在するのなら、きっと昨日垣間見たブルーモーメントは、その魂たちの返事だったのかも知れない。(2023年8月下旬)
2023-08-21 12:17:27
院長エッセイ | コメント(0)