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長野市稲里町田牧 の 脳神経外科・神経内科 脳とからだの くらしまクリニック

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ICN→SEA(ソウル→シアトル便)

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ICN→SEA(ソウル→シアトル便) 

 もうすぐ節分とは言えまだ寒中だ。外気の冷たさを覚悟しながら、全身に覚悟しろよと総司令を発しながらクリニックの職員玄関のドアを開けた。一瞬キュンと外気が襟元に短いジャブを繰り出した気がしたが、一歩踏み出すと予想していたほど大した寒さではなかった。寒さが苦手なのでホッとする反面、微かに落胆もあった。信州の寒の内と言えば大気も凍り付く深閑とした氷点下が昔の常だった。私が受験生だった頃頭を冷却するために毎晩夜の散歩をしたものだが、二月の夜は風も止まり、地球から大気圏が消えて直接宇宙空間につながったように清閑な漆黒に恒星や銀河たちが恥ずかしそうに光を放ち、背の中央を警策(きょうさく、坐禅のとき、修行者の肩ないし背中を打つための棒)でぴしりと叩かれたような強烈で静かな寒さがあたりまえにあった。しかし今はその凜とした寒い夜はなかった。地球はこれまでも氷河期になってあたり一面凍ったり、恐竜の住んでいたジュラ紀には北極圏でも平均気温が15℃前後だったと言われているので、地球の気まぐれが少し動き出したのかもしれない。
 今日も帰宅がこんな時間になってしまった。診療はたいてい18:30までには終わるのだが、書類書きや患者さんの診療録の復習、画像の読影などをしているとどうしても21時は回ってしまう。最近仕事にせよ日常の生活動作にせよ、処理・遂行能力が低下したのか時間ばかり先走って過ぎていく気がする。下り坂で小走りしたら、次の一歩を素早く踏み出さない限り前のめりに転倒してしまいそうな、そんな思いで一日一日を駆け抜ける毎日。だからすっかり暗くなった駐車場に佇むと必ず夜空を見上げてほんの一時の自分の時間をpauseさせる。たいていの場合同じタイミングでジェット機の音が西北西から東南東へと夜空を横切っていく。ソウル→シアトル便で、20:05に仁川(インチョン)空港を飛び立って、遠く太平洋を横切りシアトルに向かう便である。飛行ルートを調べると、離陸から1時間余で長野の上空を通過し栃木の宇都宮方面に向かってから太平洋に抜けて行く。DELTAエアラインとKOREANエアラインのシェア便のようだ。今頃機内では遅い夕食がサーブされているのだろうか。旅の期待に胸膨らませる乗客たちがいる機内の光景を夢想しつつ夜空を横切る機体のアンチコリジョンライト(飛行機の胴体の上と下で赤く点滅する)を見えなくなるまで追う。ある意味私なりのマインドフルネス(現瞬間の体験に意図的に意識を向けるが評価したりとらわれたりしない、シンプルに観ること)の時間と言えるかも知れない。
  60歳代になると確実に自分も人生の後半戦にいて、たまに身近な周囲で起きるどんでん返しの現実を観ていると、今後の展開が見えない不安定で未知のシナリオに沿って人は皆が進んでいくのだと感ずる機会が増えてくる。しかしそもそもシナリオなんてないのかも知れない。英国の物理学者のジュリアン・ハーバーは時間そのものを存在しないとしていて、無数の静止した現在が少しずつずれた物質配置として存在して、人の脳がその無数の「現在」を認識することにより時間が流れるという概念が生ずるのだとしている(ブロック宇宙論)。簡単に言えばアニメの原理と同じで、少しずつ変化する静止した絵を連続で見るとあたかも動いているように見える仮現運動と似ている。ただ絵の場合は残るがブロック宇宙論では過去は存在しない。過去は次の「現在」の時点でもう存在せず、人の記憶の中にだけ残る。だから「今」を、「現在」をできるだけ高い品質にして積み重ねることが出来れば、記憶の中だけに存在する「過去」という時間が熟成するのだろう。
  節分前にしては少し手ぬるいと揶揄したけどじっと佇んでいると冷たい夜風が耳元をすり抜け、ブルッと身震いが起きた。仰ぎ見ていた旅客機はシアトルに向けて東の空に消えて行った。「Bon boyage(ボンボヤージュ)」とつぶやく。半年前真夏の夜に、3億万㎞離れた地球の軌道円の反対側で同じように夜空を見上げていた自分は既になく、40数回前この軌道のこの位置にいて極寒の夜に散歩して夜空を見上げていた自分も今は存在しない。だが私の脳の中に記憶として熟成して残り続けている。人の脳に「bravo(ブラボー)!」。私の脳に「bravo!」。(2024年2月初頭)

2024-03-15 23:06:10

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