〒381-2214 長野県長野市稲里町田牧1310-5
鯉のぼり 駿河湾は平坦なライトブルーの透明板を浮かべたように波もなく穏やかで、海を挟んで富士市の街並みは靄の中に沈殿し、富士山が雄大に凜々しく、しかしさりげなく視野を独占する。久しぶりに訪れた西伊豆の宿で日没までの小一時間をテラスで過ごした。穏やかな五月の始まりを演出する微風は海原の湿気を含んで少し肌に冷たく、潮の香りと新緑の木々が放つ爽やかなフィトン・チッドと混ざって、疲労と憂鬱で濁りかけた私の心を浄化した。ふとカラスアゲハがテラスをかすめるように数回行き来して舞っ行った。なかなかお目にかかれないカラスアゲハは私の中では母の化身と信じているので、今回の旅には母も同行して来たに違いない。それと時を同じくして仕事仕様のアラームが鳴り出した。毎日聞き慣れたアラーム音だが、休日に聞くと場違いでアラート以外の何物でもない。しかし意外やかえって非日常のたおやかな時の流れとシチュエーションを再確認できた気がして、不思議と満たされた思いが脳裏に浸透していく。そう、明日はこどもの日で日曜日、振替休日があるのであと2日間は仕事から解放される。そんな心のゆとりのなせる技か。 泊まった宿はなかなか高評価な宿で、今回予約が取れたのもよっぽど運が良かったのだろう。部屋は旅行情報誌に掲載されるような、模範的で端正な清潔感のあるコテージ風の造りで、半露天風呂まで付いている。何よりの売りは部屋のテラスから駿河湾越しに臨む富士山で、値段も高かったが年齢の割には夫婦して夜遅くまで頑張って仕事している褒美だと思い切って宿泊を決めた。夕食は広い空間のおしゃれなレストランで、テーブルもゆったりと配置され、感染面への配慮もさりげなく徹底していた。食事は私好みではなかったがなかなか洗練されていた。レストランのテラス席からベランダ続きにらせん階段を上ると、屋根を越える高さの円筒形のステージがあり「星見台」だという。夕食後に眺めたら北斗七星が頭上にきれいに見えた。さすがに天の川は見えなかったがsea levelに近い立地としてはまずまずな星空だ。部屋に戻ってコーヒーをいただく。私たち夫婦の取り決めとして宿ではテレビやDVDなどの映像媒体は観たり鑑賞したりしない。お互いが好きなことをゆったりと楽しむことにしている。二人ともたいてい小説や趣味の雑誌を読み、Bluetoothのステレオがあれば好きなプレイリストを流して心を潤す。 旅の途中の車窓から久しぶりに鯉のぼりを飾っている一戸建の住宅を見かけた。山梨県内だったように記憶しているが、2階のベランダから庭の地面まで斜めにロープを張り、鯉のぼりが数匹泳いでいた。珍しい飾り方だなと感じた。鯉のぼりと言えば、まだ父が若い頃幼児の私を抱きかかえ、二人とも満面の笑みで鯉のぼりのポールの前で撮影された白黒写真があった。今もフォトアルバムにはあるだろうが長年開いていないので変色してしまっているかも知れない。しかし改めて開いて見るまでもなくその写真のフレームは克明に私の脳裏に焼き付いている。おそらく父のもっとも幸福だった時期のワンカットだと一目見ればわかる印象的な一コマであったから。当時鯉のぼりは専用の竿竹があり、先端には矢車を付け、滑車を備えて国旗を掲揚するような要領で鯉のぼりを飾った。竿竹はかなり太くて丈夫で、用のない1年の内の大半は軒先に横に吊してしまってあった。鯉のぼりはたいてい祖父母や親戚が祝いに贈呈してくれたものである。私の鯉のぼりは誰が贈ってくれたかはわからない。飾る機会は年に数週間だし、おそらく数年、長くても10年には及ばないと思うので、ポールは軒先にいつの日か埃だらけになって、太すぎて物干し竿の代役のもならずに私が成人するまで家のパーツのように軒先にあったように記憶している。両親が老いて老老介護が不可能となり、家を引き払うときに処分した記憶がない。既に父が処分していたのだろう。どんな思いで鯉のぼりのポールを処分したかはもうわからない。 最後まで父はその古い住宅に固執していた。長男であったが父は実家を継がず家を出た。父を可愛がってくれた年の離れたいとこが長野市長になり、新しい市営住宅をいくつか建造した内の一つを優先的に提供され、私の両親と先に生まれていた姉が住み始めた。隣人にも恵まれ、待望の男児、つまり私を授かることが出来た。狭い住居の割に庭は広く、まさきの生け垣と赤いつるバラのプライバシースクリーンで囲まれ、ヒョロヒョロと背だけ伸びた桐の木、イチジクの低木、見事な大輪を咲かせる黒バラ、アヤメ、矢車草、マーガレットなど多種の花々が季節を彩った。草花好きだった母のキャンバスのような庭だった。父の父親は善人を絵に描いたようなgenerousな人だったが70歳で事故死し、長野県の女性史にも名が残る厳格で聡明な母、つまり私の祖母はゲーテの言葉をよく引用して物言いするような人だった。山スキーと大福餅、旅をこよなく愛した父にとって生家は少々居心地が悪かったのかもしれない。鯉のぼりの前の幼い私を抱っこした父の写真の笑顔はそれを物語っていたように思う。 伊豆からの帰りはフェリーで静岡港までショートカットして、新東名から藤枝、豊田松平インターから高速道を降りて県道に入り、山間の田舎道を延々と走って阿智村、中央道の飯田山本インターまでドライブを堪能した。山間にいくつか小さな家屋群はあったが鯉のぼりが飾られた家屋は見当たらなかった。おそらく高齢者ばかり住んでいて空き家も多いのだろうか。大きな家屋ばかりだがほとんどの窓は閉ざされ、少なくとも大家族が住んでいる住居ではないことは一目でわかる。しかしそこに住んでいる人々、おそらく誰それかの祖父母たちに当たる人達の脳裏には、私のそれと同じにかつて若かりし日に我が子を抱いて、鯉のぼりを仰いだり雛壇を眺めて満面の笑みをたたえた一コマが焼き付いているに違いない。高速道をひた走り家路に向かう西の空はヒアシンス色のくすんだ紫みの青に変わり、そして闇が訪れた頃私たちの今回の旅は終点であるわが家にたどり着いた。(2024年五月の旅)
2024-05-09 20:24:03
院長エッセイ