〒381-2214 長野県長野市稲里町田牧1310-5
決められたリズム アラームが鳴るかならないうちに自然と眼が覚めた。まだあと5分は眠れるかと時計に眼をやるとちょうど6時シャープを示していた。起床時間だ。疲れがとれたとは到底思えない身体の重さに抗って、スローモーションのように起き上がる。一つため息をついて窓のカーテンを開ける。新築当時深いガーネット色だったカーテンも、20年余の日焼けのせいで熟成が進んだピノノアールのようにオレンジを帯びたテラコッタ(レンガ色)に変色している。今日は曇りで、グレートーンの厚い雲に覆われた空の下に、見慣れた近隣の家々が早朝の静寂の中に重く沈殿している。同じ分譲地に同時期建てた家々やそれ以前から代々受け継がれてこの地にあった大きな民家も、時の経過を物語るように外壁や屋根が色あせて薄黒くくすんで見える。中には家主が既にいなくなってしまって生活感を抜き取られ、哀しく佇んでいる家もある。まるで陶器で出来た家屋のように冷たい。時は流れた。それでもまた朝が来て、おそらくはいつもとあまり代わり映えのない一日が始まる。「何歳になっても医師であり医者として生きていきたい」と望んで診療所を開設したのだから、こうして平和に朝を迎えられて平凡な一日を始められることに感謝しなくてはいけないのだが、気持ちも身体も何故か重たい。自分もいつの間にか高齢者の範疇に入ったせいだろうか。決められた時間と決められたリズムで毎日が積み重なり、社会は動いていく。井上陽水の「決められたリズム」という唄が不意に脳裏に浮かんできて、メロディーが頭の中に何回もリフレインし始める。 診療所を開設して12年が経過した。8年を過ぎた頃から毎日朝はこんな思いで始まる。決められた時間にシャワーを浴びて、簡単な朝食を摂って妻と診療所に向かう。一息つく間もなく診察室に入ると看護師4名がそれぞれ個性あるトーンでおはようの挨拶を投げ掛けてくる。3代目になるハーマンミラーの椅子に座って、ストーンディフューザーにお気に入りのアロマを3滴垂らす。この所作が合図となって起床時から引きずっていた朝の憂うつが昇華して消えていく。ここから診療の終わる18時までは予測から逸脱することが少ないスケジュールで毎日が繰り返され、登場人物は違うが類似したドラマが毎日展開していく。そこには脳神経外科手術をしている時のような、1ミリの手の動きの誤差や一瞬の判断ミスが患者さんの生命を瞬時に危機に追い込むような張り詰めた時間はないが、様々な患者さん達の病状と苦悩、時にはその背景に潜む人生の混沌と、フィルターを通さずに向きあう区切られた時間が患者さんの人数分だけ繰り返される。勤務医の頃は専門以外のことを聞かれても「それは専門科に聞いてください」と機械的に答えられたが、診療所はそうはいかない。言下に専門ではないからと突っぱねることは楽だがそれは家庭医、かかりつけ医として失格だと信じ込んでいる自分がいる。もともと患者さんの話をよく聞くように努めてきたことと、パターナリズムよりは共有意思決定に寄った治療法選択を取る傾向が強かったせいかひとりの患者さんにかかる診療時間は長くなる。長い待ち時間もひたすら我慢して診察にたどり着いて下さる患者さんがおられることは感謝に堪えない。ありがたいことだ。 認知症例の場合は時として人生の本質に係わる哲学難問とつらい試練を私に投げ掛けてくる。速さは違えど確実に進行する疾患であることは嫌と言うほど診てきた。ヒトが様々な能力を喪失していき、輝かしい経歴やきらめく記憶も、そしてアイデンティティすらも剥ぎ取られていく姿と向き合う診療を行いながら、つくづく哀しい疾患だと感ずる。診断書や書類への記入はしばしば沈痛と気欝を伴う。自分もいい年になってきたし水面下で彼らと同じ立場に既に向かい始めているかも知れない。これまでの自分の素行を省みるにつけ、もうそのロシアンルーレットに組み入れられているような気がする。いずれにせよ生きている限りはベルカーブ(bell curve)の下降線を受け入れなくてはならない。アメリカの物理学者のマックス・テグマークは「ブロック宇宙論」の中で、時間の経過という物は人間が記憶という形で「今」を残すから存在するのであって、実際には物質配置の異なる「無数の現在」が存在するだけで「時間は存在しない」と唱えた。つまり時の流れはある意味人の創り出した幻想であるわけで、写真や記録で残さぬ限りはヒトの脳の中にしか存在しない。ヒトが個体の死と共にその人物の生きてきた物語が消滅するのは仕方ないとして、認知症は個体が存続しているのにおかまいなくLife Storyをゼロ設定していく。この宇宙に創造主がいたとしたら、何故に認知症という試練をヒトに与えたのかを問うてみたい。今私にできることは、患者さんや家族に学び、彼らへの共感やその病態の受容に努めながら診療していくことなのだと思う。 診療後の静かな診察室で、Apple Musicのプレイリストを聞きながら診療録のレビューを行う。最近すっかり開催地に赴くことが減った各種学会のオンデマンドの聴講をするのもこの時間だ。この他にも、市内の4箇所の総合病院に登録医枠をもらって撮影(撮像)していただいた放射線画像を読影する仕事も時間がかかるが簡略化できない自分がいる。放射線科医のレポートをそのまま患者さんに告げれば済む話であるというのに。若き日、日本の神経放射線学のパイオニアとも言うべき重鎮教授の教室で2年間にわたって神経放射線学と画像診断への取り組み方の尊い教えを受けた。その理念が染みついてか、診察から予測した診断と画像が符合するか否かを納得のいくまで自分の眼と知識と経験で確認したい。これはこだわりと言うより自分の医療の根幹の一部になっている。そのせいか通常の開業医では考えられないほど夜の残業が多くなってしまう。ようやく仕事を終えて診療所のドアを開けるとあたりはすっかり夜も中盤を迎えていて星空が天上に広がっている。周囲に田畑が多いので星座はよく見える。妻には経理・経営、紹介状や書類の校正などを任せているので、必然帰りもいっしょで遅い時間になる。世に言う華やかで豪奢なかつての開業医の生活とはかけ離れている。診療所を経営すると言うことはこういうことなのだとた め息をつきながら軽めの夕食を摂って、デカフェのコーヒーを飲んで床に入る日々。決められたリズムで日々が繰り返される。考えてみれば私たちの身体も、心拍や呼吸を始め様々なリズムで成り立っていて、脳科学者によればデルタ波よりずいぶん長い数十秒程度の周期のインフラスローオシレーションという脳の大局的なリズムがあり、デフォルトモードネットワーク(Default Mode Network)と執行系ネットワーク(Central Executive Network)もシーソーのように交互に活動するらしい。つまりある意味生きている限り決められたリズムは人間という生物の本質なのかも知れない。 カーテン越しにいつもの朝とは違う明るさを感じて眼が覚めた。「しまった寝過ごしたか」と肝を冷やして身を起こそうとしたが、そうか今日は休日だと気づいて安堵。カーテンの隙間から好天を示唆する日射しが一筋差し込んで、寝室の窓際にジャングルのように生い茂った観葉植物の葉に注いでいる。開院の際にお祝いにいただいたたくさんの鉢植えの置き場に困って、けっきょくわが家のベッドルームに避難させたものだ。居心地がよいらしく枯れることもなく健気に控えめに命をつないでいたものだから、仏心を出して大きめの鉢に植え替えをしたら一気にアウトグロウしてジャングルのようになった。それぞれ違う形状の葉達が重なり合いながら陽光を求めて自己主張している。カーテンを全開にして植物たちに太陽光を浴びせる。ベッドに寝たままのんきそうにスマホでニュースを見ている妻に、「今日はNさんの店で中華を食べたいな」と誘うと、そそくさと起き出して同意を態度で表した。今日はその後足を伸ばして安曇野のクラフトショップをひやかしに行こう。普段の決められた4拍子のリズムに埋もれることなく、時に逸脱して7拍子や8拍子を刻みながら生活することを目指していこう。平日は仕事と勉強漬けの自分でも驚くほどストイックな開業医生活をしているが、身体の続く限り、今のようなリズムで人生を紡いでいけたらと切に願うこの頃である。(2026年初春)
2026-03-16 18:37:38
院長エッセイ